「どう、おいしい?」
このところ毎晩、帰宅すると彼にこう尋ねていた。
愛しい誰かさんが待っていてくれる。
そのうえ、私の供した食事を、むさぼるように食べてくれる。
他には代えがたい幸せだ。
ひとり暮らしが長かったせいか、つくづく身に染みる。
彼は、無口である。
返事をしてくれているのだろうか。声を聞いたことは、ない。
時々食べるのを休んで、微笑むような顔つきで遠くを見る。
そんなとき、「返事は言葉でなくてもいい、気持ちは通じるもの」という気がする。
とにかく、彼と一緒に暮らすようになってからのここ何週間か、
家に帰るのが楽しくて仕方ない。
窓を開け放して、ベランダに腰掛けて、夕涼みがてら、
食事する彼の姿を、見るともなく見ている。
そんな時間が最高だ。
その彼が、一昨日の晩から、一切何も食べなくなった。
そのうえ、微動だにしない。
更には、顔つきまで変わって見える。
否、顔立ち、というか、体型も、色も、何もかもが変わり、
ただただジッとしている。
「どうしたの?食欲ない?」
と尋ねても、いつものとおり返事はない。
ベランダに目を落すと、彼のウンチが一面に散らばっている。
食事する彼の姿ばかりに目を奪われて、
彼のウンチは全く目に入っていなかったのだ。
しばらく前、我が城にアゲハチョウが来たらしい。
鉢植えの葉の上に、黒っぽい小さな芋虫を見つけた。
私はその芋虫に「彼」と名付けた。
彼の食欲は日増しに旺盛になり、
体はあっという間に緑色に、そしてみるみる大きくなった。
そんな彼に、「次は、こっちの葉っぱにしたら?柔らかそうだよ。」なんて
話しかけては、彼の返事を想像して楽しんでいた。
彼が蛹になった日から数えると、羽化するのは来週末あたりだろうか。
そしたら盃をあけて、彼の新たな門出をお祝いしよう。
さて、まずは、この大量のウンチの掃除でもするか。
無口な彼が、アゲハチョウになって最初に見る世界が、
こざっぱりとしたものであるように。
そして、ひとり暮らしに戻った私が、羽ばたく彼にあやかれるように。