2017年7月15日土曜日

無口な彼

「どう、おいしい?」
このところ毎晩、帰宅すると彼にこう尋ねていた。

愛しい誰かさんが待っていてくれる。
そのうえ、私の供した食事を、むさぼるように食べてくれる。
他には代えがたい幸せだ。
ひとり暮らしが長かったせいか、つくづく身に染みる。

彼は、無口である。
返事をしてくれているのだろうか。声を聞いたことは、ない。
時々食べるのを休んで、微笑むような顔つきで遠くを見る。
そんなとき、「返事は言葉でなくてもいい、気持ちは通じるもの」という気がする。

とにかく、彼と一緒に暮らすようになってからのここ何週間か、
家に帰るのが楽しくて仕方ない。
窓を開け放して、ベランダに腰掛けて、夕涼みがてら、
食事する彼の姿を、見るともなく見ている。
そんな時間が最高だ。

その彼が、一昨日の晩から、一切何も食べなくなった。
そのうえ、微動だにしない。
更には、顔つきまで変わって見える。
否、顔立ち、というか、体型も、色も、何もかもが変わり、
ただただジッとしている。

「どうしたの?食欲ない?」
と尋ねても、いつものとおり返事はない。
ベランダに目を落すと、彼のウンチが一面に散らばっている。
食事する彼の姿ばかりに目を奪われて、
彼のウンチは全く目に入っていなかったのだ。


しばらく前、我が城にアゲハチョウが来たらしい。
鉢植えの葉の上に、黒っぽい小さな芋虫を見つけた。
私はその芋虫に「彼」と名付けた。
彼の食欲は日増しに旺盛になり、
体はあっという間に緑色に、そしてみるみる大きくなった。

そんな彼に、「次は、こっちの葉っぱにしたら?柔らかそうだよ。」なんて
話しかけては、彼の返事を想像して楽しんでいた。

彼が蛹になった日から数えると、羽化するのは来週末あたりだろうか。
そしたら盃をあけて、彼の新たな門出をお祝いしよう。

さて、まずは、この大量のウンチの掃除でもするか。

無口な彼が、アゲハチョウになって最初に見る世界が、
こざっぱりとしたものであるように。
そして、ひとり暮らしに戻った私が、羽ばたく彼にあやかれるように。