2013年12月31日火曜日

街頭インタビュー

質問者: 早いもので、大晦日。
      『やり残しているけれど、今年中に何とかしたい』そんなことはありますか?

回答者: はい。結婚です。

2013年12月9日月曜日

リンゴはリンゴの木の近くに

「読めるものなら、何でも読みます」

ラジオから、こんな言葉が聞こえてきたら、
何だか急に、「読んでもらいたい!」衝動が、ムラムラと抑えがたく湧いてきた。
読んでもらいたいものは、もう瞬間的に決まっていた。

確か今年の初めごろ、寒がり屋の私には応える時期だったはず……
ブログから、過去の投稿を引っ張り出して、
コピーして、貼り付けて、
生まれて初めて、ラジオ局にメールを出した。

しばらく後、
同じ曜日の同じ時刻、同じ周波数に、ラジオをチューニングすると、同じ声が聞こえてきた。
「東京都の非常勤さんからのお便りです」
ラジオの声はそう言うと、私のメールを、何の変更も加えずに、そのまま読んで聞かせてくれた。
今では殆ど声を発することのなくなった父の言葉を聞かせてくれた

次の週末、病院へ父を見舞いに行って、それを報告した。
「お父さんの言葉をラジオ局に送ったら、番組で読んでもらえたよ」
そう言って、ラジオで読んでもらったままの原稿を、今度は私が読んで聞かせた。
いつもは目を開けることさえ大儀そうな父が、大きく目を見開いて、顔をこちらに向けた。

元気だった頃の父は、ラジオや新聞に、川柳やらどどいつやらを時折投稿しては、
読まれたり読まれなかったり、掲載されたりされなかったり、していたものだ。

「気付いた時にはラジオ局にメールを送っていたなんて、
どうやら私、しっかりお父さんの血を引いてしまったみたい」

父は、ぎゅっと目を閉じた。


『蛙の子は蛙』
『この親にして、この子あり』
『血は争えない』
なんて言われることの多い、こんな状況を、
そう言えば、あの夫婦はいつも、チョット風変りにこんな表現をする。

リンゴはリンゴの木の近くに落ちる

私には、夏休みや正月休みを取っては滞在している「第二の家族」がある。
ここでの「あの夫婦」は、そのお宅のパパとママだ。

入院中の父と実家の母が気掛りで、今度の年越しには「帰省」できそうもないことを伝えると、
パパとママは代わる代わるに、電話やメールを何度もよこしてくれた。

「淋しいな。お前と一緒に年を越すのは、既に我が家の伝統となっているんだよ。
しかし、今は堪え時だな。
ご両親を、家族を、そしてお前自身を、しっかり支えてやりなさい」

実家で年を越すのは、何年振りのことだろう。
今度の正月、リンゴはリンゴの木の近くで過ごすつもりだ。

2013年11月4日月曜日

ヘアスタイルのお手本

美容院に行った。
「今日は、どんな感じに?」との美容師さんの質問に応えるべく、
アン・ハザウェイの写真を見せた。
「お手本はこんな感じで、お願いします」

これまでにも何度となく、美容師さんにヘアスタイルのお手本の写真を見せてきた。
 イングリット・バーグマン
 オードリー・ヘップバーン
 樋口可南子
 宮沢りえ
 ・・・

美容師さんの人柄というのは驚くべきもので、
一度たりとも、「同じにできるのは髪型だけですよ」なんて言われたことがない。
「良いですね」とか、「髪質が異なるので、前髪だけ少し長めにすると、きっとお似合いですよ」とかいった言葉が返ってくる。

また、美容師さんの腕前というのも驚くべきもので、
少なくとも、美容院を出る、その時の私の髪型は、
雑誌の切り抜きの中で微笑む銀幕の美女と何ら変わるところがない。

それだけに、顔やプロポーションの格差に驚嘆する。

しかし、そんなことでヘコタレル私ではない。

私には、想像力という最強なる武器がある。
美容院で鏡を見つめている間はもちろんのこと、
街のショーウィンドウや地下鉄の窓ガラスに映る自分の姿に目をやるときも、
網膜へ届く映像に関しては髪型のみに注目し、
ほかは想像力をフル回転して、
顔とプロポーション、ついでにファッションも、銀幕の美女たちのそれと入れ替えるのである。

こうして私は、晴れて完全なるアン・ハザウェイに変身した。


実家に帰ると、もちょうど美容室から帰ったところだった。
「さっぱりしたわ」という母の頭を見ると、
驚くべきことに、私と同じ髪型をしているではないか。
この、割烹着を着て買い物用のコロコロを引っ張る、現代日本における典型的オバサンが、
同じくアン・ハザウェイの写真をヘアスタイルの手本としたのだろうか。

「美容師さんには、何て言って切ってもらったの?」私が尋ねると、
「『いつも通り』よ」母は答えた。

確かに母はいつでも、記憶を何年遡ってもなお、いつでもこの髪形である。
とはいえ、
わざわざ、遠く海を隔てた映画スターの写真をお手本にした私としては、
母と私のヘアスタイルの間に、何かしら差をつけたいところだ。

「私はね、アン・ハザウェイの写真を見せて、お手本にしてもらったの」
すると、母は言った。
「きっと、そのアンさんは、私の写真を美容院に持って行ったのね」

2013年10月25日金曜日

共通の願い

たまに、生徒さんからこんな告白をされることがある。

「聞こえた?今、オナラしちゃった」

こんな時、そのあとに続く生徒と講師の行動は、どういうわけか決まっている。
しばし黙して見つめ合い、やがて感じられるニオイの強弱を確認するのだ。

そして、そのあとに続く彼らのセリフも、どういうわけか決まっている。

「・・・先生も、したことある?」
「あなたと一緒のときはしたことない」
「他のときは?今までの人生全部だったら?」
「生きてりゃ誰だってするわ!」
「え~、似合わない」

似合う・似合わない、の問題ではなかろう、と思ったり、
『似合う』よりは『似合わない』と言われる方がマシだろうか、と考えたりしていると、
そのあと更に続く彼らのセリフも、どういうわけだか、判を押したように同じである。

「どんなニオイだろう、嗅いでみたいな。今してみてください」

どういうわけか生徒たちに共通する、こんな願いを叶えてあげられたことは、
現在のところ、一度もない。

2013年9月20日金曜日

市場にて

客: お宅のトマトは、何か特別なのですか?

店番のおじいさん: いいや、何も特別なことはない。普通のトマトだよ。

客: いま、この市場を一通り見て回ってきましたがね、
   どの店も、トマト1kg 500円くらいでしたよ。
   ところが、お宅だけは1kg 2,000円もするじゃありませんか!

店番のおじいさん: 今年は双子の孫が生まれてな。何かと物入りなんじゃよ。

2013年9月18日水曜日

ずっと、嘘はつきたくない、と思ってきた。
ところがこのところ、自分の言葉が、どこか嘘に聞こえる。

「お父さん、もうすぐお彼岸だよ。お母さんがおはぎを作ってくれたら、一緒に食べましょう」
「明日の手術が終わったら、食事を摂れるようになるんだって!
 そうしたら元気が出るから、きっとすぐ家に帰れるね。楽しみだな」
「何年か前に一緒に行った温泉、あそこ良かったよね?また行こうよ!」

嘘をつくつもりはないけれど、現実的とも言い難い言葉たちについて、
それが嘘かどうかの判定を試みること自体、お門違いなのだろう。
だから、これらが嘘かどうかは、考えないことにしよう。

でも、やっぱり、できれば嘘はつきたくない、と思う。
いや、やっぱり、これらが嘘にならないでほしい、と思う。

2013年8月2日金曜日

ルーズボール

兄弟の一人は、父に対して非常に厳しい。

「立てるよね?じゃあ立って!」という言葉が、
有無を言わせぬ勢いで、
座っていることさえままならぬ老人に向けられるのを初めて聞いたときは、
家族の私でさえ、我が耳を疑った。

若いころから気難しく、言葉より先に手が出る性質の父に、
我々子どもたちは散々叩かれ、怒鳴られた。
ウチの子もヨソの子も、分け隔てなく怒鳴り散らす父のお蔭で、
小中学校の級友たちからは「オジサンがいるなら遊びに行かない」なんて、よく振られたものだ。
大人になってからも、兄弟たちが父に対して小さからぬわだかまりを抱えて続けてきたことは、
火を見るより明らかだった。

今となっては、
叩くどころか腕をほんの少し動かすことさえ、怒鳴るどころか蚊の鳴くような声を出すことさえ、
時間を掛けてマッサージやら準備運動やらをしてからでなければできない父に、
まさか、兄弟はかつての仕返しでもするつもりなのだろうか。
それではいくらなんでも、年老いた父も気の毒ではなかろうか。

そんな悲しい疑念が浮かんだ折りも折、
実家の居間で、かの兄弟と差し向かいとなった。

「お父さんの筋力、だいぶ落ちたね」
溜息まじりの私の言葉に応えるように、兄弟は質問を返した。
「ルーズボールって練習があってさ、知ってる?」
かつて昔その兄弟は、バスケットボール部に所属し、地元の大会で最優秀選手賞までもらった
ド根性中学生だった。
そんな彼らの練習メニューの最後は、いつもルーズボールだった。

コーチと一人の選手が向かい合い、その周りを他の選手全員が大きく取り囲む。
コーチは一球ずつボールを投げ、
向かい合った選手は、それが床に落ちないうちにキャッチし、周りを取り囲んだ選手に投げる。
ぐるりと取り囲んだ選手たちは、球拾いをして、コーチに次々とボールを渡す。
単純に説明するなら、これが、ルーズボールである。

しかし、実際は、こんな説明では言い尽くせない。

まず、コーチが右手遠方にボールを投げる。
全速力で駆け出した選手がやっとのことでボールに追いつき、キャッチすると同時に脇へ放る。
それを見たコーチは、間髪入れずに左手でボールをポトリと落とす。
選手は向き直り、客観的に見たら届くはずのないボールに向かって走り出す。
走るだけでは間に合わないので、ボールの下に滑り込むべく選手はスライディングする。
その甲斐なく、ボールは選手の手に触れぬまま床に落ちる。
それを見たコーチは、また間髪入れずに次のボールを、これまたとんでもない方向に投げる。
こんなことが繰り返される、これが地獄のルーズボールである。

「あれさ、そもそも、コーチは殆ど届かないところに投げてるんだから、
だいたいボールを取れるわけないんだ。
客観的に見たら絶対にできないことだよ。
だけどさ、周りの球拾いは、全員が『できる!』て大声を掛けるわけ。
矛盾してるよね。

ただ、もしもだよ。
周りから『それは無理だろう。やめとけよ』なんて言われたら、あんな風に走れない。

ダッシュして、ボールの下に倒れ込んで、それでも届かなかった、そのすぐ後なんてさ、
普通に考えて、走るどころか、立ち上がれるわけない。
それでも周りからは、『立て!』とか『走れ!』とか『届くよ!』とか言われる。
客観的に見たら、いやぁ、どう考えても無理だけどさ、
『できる』『できる』って言われてると、どういうわけか、何とか立ち上がっちゃう。

ただ、あそこで誰か一人でも『無理かも』って言う奴がいたら、絶対立てないよ」


地獄のルーズボールは、決して選手を懲らしめるためのものではない。

たとえ客観的に見れば手が届きそうにないボールでも、
床に落ちる最後の瞬間まで、それを取ることへの執念を持ち続けることは、
たとえ客観的に見れば勝てそうにない雲行きの試合でも、
終了のホイッスルの鳴る最後の瞬間まで、勝つことへの執念を持ち続けることに通じる。
その執念を持ち続けるためには、周りが100%『できる』と言い続けることが大きな力になる。

兄弟は、そう言おうとしているようだった。

座っていることもままならぬ老人に「立て」と言うのは、
必ずしも、その老人を懲らしめるための言葉ではないのかもしれない。

たとえ客観的に見れば立てそうにない体力でも、
我々は生きている限り、自分の人生の終わる最後の瞬間まで、
立つことへの、活動することへの、生きることへの執念を持ち続けるほかないのだろう。
そして、その執念を持ち続けるためには、
周りが100%『できる』と言い続けることで、何か力になれるかもしれない。

兄弟は、そんな希望に必死でしがみついているようだった。

私たちには、父の老いを食い止めることも苦痛を取り除くこともできない。
それでも、何とかして力になろうと、しがみつくようにしてくれる家族が近くにいることは、
父にとって救いかもしれない。


ルーズボールは、地獄のような練習だ。
しかし、
もしかすると、
場合によっては、
その影に、天国への抜け道が隠れていることだって、あるのかもしれない。

2013年7月12日金曜日

七夕の願い

我が実家では、葉物の野菜をまとめ買いした時、
いっぺんに茹でて弁当箱に詰め、冷蔵庫に入れておく。
その際、弁当箱の中身がひと目でわかるように、
茹でた日付と野菜の名前を記したメモを、弁当箱に貼り付ける。

先日実家に帰り、冷蔵庫を開けると、いくつかの弁当箱があった。
その一つには、桃色の短冊が貼られ、兄弟の手でこう書かれていた。

「七月七日 ホウレンソウでありますように」

弁当箱を開けると、茹でたホウレンソウが入っていた。
兄弟の七夕の願いは叶えられた。

短冊の筆跡の主は言った。
「ホウレンソウがホウレンソウなら、何よりでしょう」

ホウレンソウが小松菜になろうとしたり、
カブが大根になろうとしたりしても、
どだい無理な相談だ。
そんな無理を押し通そうとしたところで、授かった命を損ねるだけで、
自分にも、周りの他人にも、無理で生じたシワ寄せが滞るばかりだ。

だから、誰もがそれぞれ、自分自身でいられることが、一番だ。

「自分自身でい続ける」ことは、当たり前のようでいて、思いのほか難しい。
だからこそ、誰もがそれぞれ、自分自身でいられますように。

我が兄弟の短冊には、そんな願いが込められているように思えた。

実家からの帰り道、見上げると星が出ていた。
ちょっぴり遅ればせながら、七夕の願い事をした。


私が私でありますように。

あなたがあなたでありますように。

それぞれが、それぞれ自身でありますように。

そして、ホウレンソウがホウレンソウでありますように。

2013年6月13日木曜日

大江戸線

東京で生まれ育ち、今も東京に暮らす私は、
都営地下鉄大江戸線に乗る機会を持たぬまま、最近まで過ごしてきた。
それが先日、ついに初めて大江戸線に乗った。


何年くらい遡るだろう。
大江戸線が全線開通したころのこと。

当時のアルバイト先では、勤務時間の中に、「経理部長とお茶」という、なんとも長閑な時間が、
私の全ての出勤日において、毎回およそ一時間ほど設定されていた。
アルバイトの身の上では、なかなか日常的に口にすることのできないような、
ちょっとばかりハイ・グレードなお菓子をお供に、
ちょっとばかりハイ・グレードなお茶を飲み、
そして、ちょっとばかり、否、かなりハイ・グレードな経理部長との会話を楽しむ。
そんな、ハイ・グレード尽くしの時間だった。

経理とは何一つ関わりのない作業をしていたアルバイトの私が、
なぜこのようなハイ・グレードな時間を、しかも勤務時間として、
一回の出勤につき約一時間も設定され、
さらには、それが社長をはじめ役員、社員、何しろ全員から、当然のように承認されていたのか?
これは、当時のアルバイト先における最大の謎である。

さて、ある日の「経理部長とお茶」の時間、彼女は得意気に言った。
「大江戸線って、乗ったことある?」
「つい最近、全線開通しましたね。私はまだ一度も乗ったことはありません」
「乗ったのよ、アタシ、こないだの週末に」

彼女は、大江戸線というものを全く知らない私に、その概要を説明してくれた。

大江戸線の特徴は、まず、その深さにある。
駅に入るべく、地下への階段を下りようとすると、早い段階から下りエスカレーターが存在する。
新しい駅はさすがに気が利いている、とそれに乗ってみる。
すると、踊り場がある。
折り返して、またエスカレーターに乗る。
すると、また踊り場がある。
また折り返して、またまたエスカレーターに乗る。
・・・こんなことを繰り返して、結局6回踊り場が出現し、エスカレーターは6回折り返した。
つまり、7本の下りエスカレーターに乗り継いだことになる。

そこで彼女はこんな感想を抱く。
「ああ、アタシも堕ちるところまで堕ちたわ。これぞまさに地獄の底だ」

地獄の底に到着した彼女は、そこで切符を購入し、改札を通った。
そしてホームに向かうべく、更にエスカレーターに乗った。
改札階からホーム階への下りエスカレーターは、乗ったは良いが降り口が見えない。
乗れども乗れども、下れども下れども、いつまで行っても降り口に出ない。
そんな長い長いエスカレーターに、立っているのがくたびれるほど乗り続け、
やっとのことで、ホームに降り立った。

そこで彼女はこんな感想を抱く。
「地獄の底より深いところまで落とされた。アタシはこの後、シャバに戻れるのだろうか?」

ほどなくして、「電車が来ます」とのアナウンスがあった。

そこで彼女はこんな不安を抱く。
「まさか、この後もまだ落とされるのだろうか?
実は、電車が駅を出発すると、ジェットコースターみたいに、落ちやしまいか?」

まもなく、電車が来た。
四角い、メタリックな、ごく普通の地下鉄の車両だった。
扉が開き、電車に乗り込んだ。
車両内部も、ごく普通の椅子や吊革や手すりが配置された、ごくごく普通の地下鉄内部だった。
発車してから次の駅に到着するまで、一度もジェットコースターみたいに落ちることはなかった。
どうやら、これ以上落とされることは無いらしかった。
どうやら、大江戸線は、
至って普通の地下鉄と同様の車両が、
至って普通の地下鉄と同様の走行をするものであることが分かった。

そこで彼女は、こんな疑問を抱く。
「これじゃあ、普通の地下鉄と変わらないじゃない?」
「普通の地下鉄では、納得いかないご様子ですね。
やはり地獄の底の底たるもの、落ちたりグルグル回ったり、針の山やら血の池やらでトッチメられてみたい、ということですか?」
「地獄はいずれあの世で行くから、そこでゆっくりトッチメてもらうわよ。今は遠慮しとく。
でもね、良い?
そもそもアタシが乗ったのは、『大江戸線』よ。何か足りない、と思わない?」
「・・・いえ」
「鈍いわね。足りないのは、『江戸』。江戸情緒が足りないのよ。
例えば、駅構内を長屋風に仕立てるとか、車両の座席を縁台にして乗客が将棋を指すとか。
駅員さんもお侍さんやら町娘やらの恰好してさ、車内にはクマさん八つぁんがいて、
時々天井から忍者が現れる・・・なんて、期待してたのよ。
電車のドアだって、隠し扉にでもしたら良いのにぃ」
「さすがに隠し扉では乗り降りに差し障りが生じます」
「全く、お堅いのね。アンタみたいなカタブツが設計したのよ、大江戸線は」

結局、大江戸線は、深いばかりで、これと言って何の変哲もない地下鉄だったとはいえ、
お蔭で、問題なく目的地へ移動でき、問題なくシャバに戻れたことを確認し、
その日の「経理部長とお茶」の時間を終えた。


このたび初体験した地下鉄大江戸線というものは、
確かに、エスカレーターは長く続き、駅は深い深い地の底にあった。
そして確かに、駅の様子も、電車の外見も内部も走りかたも、ごく普通の地下鉄だった。

そんな、深い深い駅へのエスカレーターを下り、ごくごく普通の地下鉄大江戸線に乗っていたら、
かつての「経理部長とお茶」の時間が、懐かしく思い起こされた。

かの経理部長は、私の父と同い年、誕生日もちょうど一箇月違いだったっけ。
今もお元気だといいな。

2013年6月1日土曜日

どどいつ 手本と練習 各二節

ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする

ちょんまげ頭を叩いてみれば ガンコガンコと音がする

ネコの頭をさすってみれば ニャンコニャンコと声がする

私の頭を揺すってみれば カラだカラだと音がする

2013年5月20日月曜日

電卓による相性診断

その女の子は、私の姿を見るなり、堰を切ったように話し始めた。
「学校の友達から、『電卓による相性診断』を教えてもらったの!」

それは、二人の氏名のフリガナを使用して、相性の良さをパーセンテージで求めるものだった。

(1) 一人ずつの氏名のフリガナを、一定のルールに従って自然数に変換する。
(2) 上記(1)により得られた二つの自然数を足し合わせ、一つの自然数を得る。
(3) 上記(2)により得られた自然数を、2で割り続け、整数部分が2桁になったところで止める。
(4) 上記(3)で得られた数値の後ろに「%」を付ける

こうして得られたパーセンテージが、「二人がうまくいく確率」だそうな。

彼女と私の氏名を例に、実際に電卓を叩きながら、説明がなされた。
「ほら」と、画面に表示された「54.78某」との結果を指さした彼女は、
ちょっとばかり心細そうに言った。
「でもね、これ、当てになるか分からない。だって、50%より低くならないって、友達が言ってた」

確かに仰る通り。

上記(1)では、フリガナの文字数と等しい桁数を持つ自然数が得られる。
これは一般的に見て、まず3桁以上のものであろう。
従って、上記(2)で得られる自然数もまた、3桁以上のものである。
ここで、上記(3)の操作において、「整数部分が2桁になったところで止める」のが味噌だ。
整数部分が3桁の数の中で、最小のものは「100」である。
 100÷2=50
つまり、この50%こそが、この相性診断の結果として得られる、最小値なのだ。

逆に、50%より低い結果、例えば40%という結果を出そうと試みたとする。
そのためには、上記(3)において、次のような経過をたどる必要がある。
 ・・・
 160÷2=80
 80÷2=40
しかし実際には、80という数が表れた時点で整数部分は2桁になっている。
従って、この段階で「÷2」の操作を止めなければならない。
すると、得られる結果は、40%ではなく、80%となる。
やはり、どう頑張っても、50%より低くはならないのだ。


さて、「『二人がうまくいく確率』が絶対に50%より低くならない」ことを理由に、
「この相性診断は当てにならない」と言えるのだろうか?
俄かには判定しがたい疑問である。

ただ、敢えて論点を少しばかりずらして、私の心情的なところに目を向けるならば、
「『二人がうまくいく確率』が絶対に50%より低くならない」ことをこそ理由に、
むしろ、この相性診断を当てにしたい。

これに従うならば、
もしも、誰かとの間で意思疎通がうまくいかないように思えたとき、
それは、50%以下の「うまくいかない」道を無理矢理に押し進もうとしていることになる。
辺りを見渡せば、そこには残り50%以上の「うまくいく」道が開けているはずだ。
たとえ、後者の道がすぐには見つからなかったとしても、
兎にも角にも、選択肢となり得る全ての道のうち、50%以上は「うまくいく」方に向かっている。
しからば、折に触れて、ちょっと一息入れがてら、辺りの景色を見渡してみよう。

そう思うと、この相性診断は、私にとって救いと言える。


「・・・ごめん、ごめん。つい、自分のことばかり話してしまった。退屈だったかな?」
我に返った私をまっすぐに見つめながら、その女の子は穏やかに、かつ、はっきりと言った。
「ううん。この『電卓による相性診断』、私も当てにします」

2013年5月16日木曜日

イチゴ診断

一般的に通用するかどうかは兎も角として、
我らが実家においては、
「中年の進行度合いは、愚にもつかないダジャレに対する弱さで測れる」と信じられている。


ある朝、ベランダに出ると、今年最初の苺の花が咲いていた。
実家に帰り、それを家族に報告した。
「苺だけに、一語にして申しますと、一号開花のニュースです」。
すると兄弟たちは、それぞれにそれぞれの反応を示した。

こんなとき我が家では、
(1) 思わず顔をほころばせた場合、中年初期症状
(2) 「ぷっ」と吹き出した場合、中年の症状が進行中
(3) 反射的に涙を流して爆笑した場合、中年も末期症状
と、まことしやかに言われている。

実家メンバーの誰がどの程度の進行度合いと判定されたか、については、
プライバシー保護の観点から、ここでは触れないでおくことにしよう。

2013年5月6日月曜日

不眠症

どうにも眠れない夜が幾晩か続いた。
これは不眠症というものだろうか。
実家に帰った折、家族に相談すると、驚きと心配との混ざった様子で尋ねられた。

「目が冴える感じ?それとも、眠いのに眠れないの?」
「眠たいけど、布団に入って目を閉じても全然眠れない」
「布団の中で『眠れない』と思っているのは、どれくらい長い間?」
「ずーっと長い間」
「具体的には、何時間くらい?」
「……5分くらいかな。ご質問に合わせて単位を直すなら、1/12時間くらい」
「それは不眠症どころか、人も羨む寝つきの良さだ。贅沢を言うな」
兄弟たちは口々に私を責めた。

確かに、一般的には仰る通り、かもしれない。
しかし当の私にとっては、この5分間こそが如何とも耐え難く、長い長いものなのだ。
誰か、この辛さを分かってくれる人はいないだろうか。

すると、それまで黙って聞いていたが口を開いた。
「枕に頭がついた時点で、まだ眠っていないなんて、さぞ辛いでしょうね」

どうやら私は、間違いなく母の血を引いた子らしい。

2013年4月20日土曜日

親の心 子知らず

実家に帰ると、心配顔のに出迎えられた。
彼女の目線の先では、兄弟の一人がパソコンに向かい仕事をしている。
いわゆる、風呂敷残業である。

「あの人、大丈夫かしら?」
溜息まじりの母の疑問に対し、YESかNOかでストレートに答えるのは、極めて困難だ。
「だいぶ働きづめなのかな。疲れていそうだね」
「ほら、それにずっとコンピューターでしょう?」
「眼精疲労に肩こり・腰痛の元ですな」

すると母は、声を潜めて言った。
「それに、『猛烈なウィルスがある』って、ニュースでやってるじゃない?」
「鳥インフルエンザ・ウィルスのこと?日本上陸?しかも、いきなりウチに?」
「今の時代、世界中が24時間繫がってるらしいから、いつここに来るかも分からないでしょう?」

何事につけ、「可能性ゼロ」とは断言しにくいけれど、
その一方で、我が家が日本のウィルス窓口になる、というのも、現実的には考えにくい。
更には、兄弟の風呂敷残業とウィルス感染との間には、関連性はほぼ皆無、と思われる。

首をかしげる私に、母はいっそう声を潜めて言った。
「だ・か・ら、あのコンピューターよ。ウィルスに感染してるかもしれないじゃない?」

母の心配は、こういうことだった。
我が実家のパソコンが、インターネットを介してウィルスに感染する。
そのウィルスが、今話題の鳥インフルエンザ・ウイルスだったとする。
パソコンから兄弟に、ウィルスが感染する。
更に家族全員がウィルス感染する。
それがご近所に、そして日本中に・・・、と感染が広がる。


コンピューター・ウィルスと、動物が感染するウィルスとは全く別物であること、
したがって、コンピューターウィルスが動物や人に感染する恐れはないこと、を母に説明すると、
「な~んだ。せっかく心配してやったのに」と少し残念そうな顔をした。

あっという間に平静を取り戻し、食事の支度に取り掛かる母の後姿を見ていたら、
こんな風に心配してもらえる兄弟が、ちょっとだけ羨ましく感じた。
否、考えてみれば、きっと私も、思いもかけないところで、こんな風に心配されてきたのだろう。


先ほどの部屋に目をやると、
そんな母の心配も知らない兄弟は、パソコンに向かったまま、必死で仕事を続けていた。

2013年3月16日土曜日

眠れぬ夜

まだ、悩み多き年頃の私が、実家に暮らしていたころ、
ある晩、どうにも眠れないまま一夜を明かしたことがあった。

翌朝、隣の布団で目を覚ました兄弟に、
どんよりとした気分の私は、一晩中眠れなかったことを伝えた。
ノビとアクビを同時にする兄弟の口からは、こんな言葉が返された。

「そういえば昨夜、『眠れない』って寝言いってたよ」

2013年3月7日木曜日

たむろする矛盾

そこには、
「この場所、看板 厳禁」
と書かれた看板が、所狭しと立てられていた。

2013年2月23日土曜日

アラフォー

数年前、年齢を概数で表現する「アラ○○」という新語が流行り始めたころのこと。

今では、新語と呼ぶには少しばかり貫録さえ感じられるこの表現、
 30歳前後は、「around 30」を縮めて「アラサー」、
 40歳前後は、「around 40」を縮めて「アラフォー」、
 60歳前後は、「around 還暦」を縮めて「アラ還」、
といった具合で作られる。

親しくしている大先輩方は、早速これらを応用して、
「私、『アラ古稀』だわ」
「彼女なんて、『アラ傘寿』でしょ?まだまだ綺麗よね」
「あの方、いつお会いしてもお元気ね。おいくつかしら?え、『アラ卒寿』?」
「うちの母が、『アラ白寿』でね・・・って、これじゃぁ概数になっていないわ」
・・・
などと、しっかり使いこなしていた。

そんな会話の中、大先輩の一人が、若手の先輩を『アラフォー』と呼んだ。
40歳代卒業を目前に控えた彼女は、少し困った様子で言葉を漏らした。
「私が『アラフォー』で、問題ないかしら」

すると、くだんの大先輩は言った。

「心配ご無用。
今は、人生80年の時代でしょう。
40歳はそのド真ん中。
だから、誰もみな、40歳を中心に『around 40』なのよ。
生まれたての赤ん坊から、80歳のご老人まで、みんなね。
ただ、『aroundの半径』が異なるだけ」

なるほど、と各自が「アラフォーの『aroundの半径』」を求めた。
中心からの距離が遠かったり近かったり、
「(自分の年齢)-40」の符号が、プラスだったりマイナスだったり、
それぞれが、それぞれに、それぞれの「アラフォー」だった。

太陽系の惑星たちが、太陽を中心に、あるいは遠く、あるいは近く、それぞれぐるぐる回るように、
世界中のみんなが、40歳を中心に、あるいは遠く、あるいは近く、それぞれぐるぐる回る様子が、
その場の全員の頭の中に、共通の絵として思い描かれるのを感じた。
そして、その場の全員が、共通の結論に至った。

生きている限り、人は皆、アラフォーなんだ。
無数のアラフォーたちが構成する世界は、宇宙そのものなんだ。


念のため付け加えると、
この会話の続きにおいて、
「人生80年とは言うけれど、
80歳を越えた方々にも、いつまでも『アラフォーの宇宙』で元気に回り続けてもらいたいね!」
という、もう一つの結論に至ったことは、言うまでもない。

2013年2月16日土曜日

煩悩親子

夏休みやら正月休みやらを取っては滞在しているお宅がある。
2012年から2013年への年越しも、やはりそのお宅で過ごした。

ママのご機嫌なご馳走が、溢れんばかりにテーブルの上を埋め尽くしたら、
パパは全員にシャンパンを注ぎ分け、
弟くんはテレビのチャンネルを「ゆく年くる年」に合わせる。
テレビから流れる12時ちょうどの除夜の鐘に合わせ、我々はシャンパンで乾杯した。

例年通りに新年を迎え、それぞれがご馳走をほおばり始めると、弟くんは私に尋ねた。

「除夜の鐘って、さっきの一回しか鳴らさないの?」
「108回撞くって、よく聞くよ」
「なんで108回なの?」
「煩悩の数だから、らしい。鐘を一つ撞くたびに、煩悩が一つずつ除き清められるのかな」

さっきまで黙々と、否、モグモグと、ご馳走のお皿に顔を突っ込みそうな勢いだったパパは、
突然顔を上げ、背筋を伸ばし、胸を張って、襟まで正して言った。
「俺の煩悩は桁が違う。108なんぞじゃ尽きないぜ!」

すると弟くんは、パパよりもいっそう背筋を伸ばし、胸を張って、襟を正し、そして言った。
「そもそも僕の煩悩は、鐘の音なんぞで逃げ出さないぜ!!」

2013年2月1日金曜日

自分の足で歩けるうちに

このところ、の言葉が気にかかる。

「自分の足で歩ける間は、それを何とも思わなかった。

しかし、自分の足で歩くってことは、実に大変なことなんだ。
これは、歩けなくなってみて、初めて分かったことだ。

お前たちは、まだ自分の足で歩ける。
だから、今のうちだ。
自分の足で歩けるうちに、行きたいところに行って、歩きたいだけ歩くんだ。
そうしなくちゃいけない。

歩けるうちに、歩くんだ。
歩きたいだけ、歩くんだ。
歩ける限り、歩くんだ」

2013年1月28日月曜日

CDラジカセ風

現在の我が城に暮らし始めて、最初に購入した家電品は、冷蔵庫でも洗濯機でもなく、
どういうわけか、CDラジカセだった。

それは、私に、
友人から贈られたおススメの音楽CDを聴かせてくれた。
毎日のニュースや天気予報を、ラジオ放送で聞かせてくれた。
子供のころ兄弟や友人たちがダビングしてくれたカセットテープを回して、懐かしの昭和歌謡も聴かせてくれた。

それが、私のCDラジカセだった。

ある日のこと、CDラジカセのCDが利かなくなった。
どうにもこうにも、CDの円盤に反応してくれない。
私はCDラジカセでCDを聴くことを諦めた。

それでも、それは私に、
毎日のニュースや天気予報を、ラジオ放送で聞かせてくれた。
子供のころ兄弟や友人たちがダビングしてくれたカセットテープを回して、懐かしの昭和歌謡も聴かせてくれた。

その日から、それは私の、CDラジカセ風ラジカセになった。

月日が経ち、またある日のこと、CDラジカセ風ラジカセのラジオが利かなくなった。
どうにもこうにも、切り替えのつまみがラジオに合ってくれない。
私はCDラジカセ風ラジカセでラジオを聴くことを諦めた。

それでも、それは私に、
子供のころ兄弟や友人たちがダビングしてくれたカセットテープを回して、懐かしの昭和歌謡を聴かせてくれた。

その日から、それは私の、CDラジカセ風カセになった。


さて、ここで振り返ってみると、
それを購入したときは、CDラジカセだった。
CDラジカセだったものが、ある時、CDラジカセ風ラジカセに生まれ変わった。
そして、CDラジカセ風ラジカセだったものが、またある時、CDラジカセ風カセに生まれ変わった。

すると、この先、どうなるか。

いつか、CDラジカセ風カセのカセットが利かなくなり、CDラジカセ風に生まれ変わる日が来るのだろう。
コイツとは、この城に暮らし始めてからのお付き合いだ。
これまで、コイツの二度の生まれ変わりの時に立ち会ってきた。
できることなら、最後の生まれ変わりの時も見届けてあげたい。

「よし、CDラジカセ風カセよ、
お前がCDラジカセ風に生まれ変わる、その時まで付き合おうじゃあないか」

そう言って、CDラジカセ風カセの肩をポンッと叩こうとしたとき、私の気持ちは揺らいだ。
なぜなら、毎日のニュースや天気予報といったラジオ放送を聞けないのは、不便だ。

CDラジカセ風カセが、CDラジカセ風に生まれ変わるその時に、私は立ち会うべきだろうか。
それとも、それを待たずして買い替えるべきだろうか。
しかし、長い付き合いのコイツに対して、そんな薄情なことをして良いものだろうか。


今のところ、CDラジカセ風カセは、私に、
子供のころ兄弟や友人たちがダビングしてくれたカセットテープを回して、懐かしの昭和歌謡を聴かせてくれている。

2013年1月21日月曜日

日陰の雪

入院中のを見舞いに行くと、ロビーではお楽しみ会が開かれていた。
懐かしのメロディーを口ずさむ紳士淑女たちの中に、父の姿は見られなかった。
部屋を覗くと、父はベッドで横になっていた。
体調が悪いわけでも何でもない。
気難しい父にとって、「皆さんと一緒にその場を楽しむ」のは、何よりも苦手なことなのだ。

私は懇願に懇願を重ね、やっとのことで、父は自分の体を車いすに移動することを許可した。
もちろん、お楽しみ会には出席しない、との条件付きだ。

車いすに腰掛けた父は、窓外の景色を眺めた。
数日前には雪が降ったことを話すと、
父は目を凝らして、景色の中に雪の名残を探しながら言った。

「雪は、降ったばかりの時は良い。柔らかくて、白くて、きれいだ。
でも、しばらくすると、凍って固くなる。
光の具合で見えなくもなるし、汚れた色にもなる。
日の当たるところは良いんだ。いずれ融けてしまうから。
日陰の雪は、すっかり固くなってしまって、融かすことも、どかすことも、どうにもできなくなる。
だから、日陰の雪には気を付けないといけない」
「そうだね。まだまだ凍っているところがあるし、氷は見えにくいから、歩くときは気を付けるよ」
「転ばないようにな」
そんな受け答えをした。

そして私は、最近の出来事を、あれこれと報告した。

金曜の晩には、ごちそうを作って、友人たちを招き、賑やかに過ごしたこと。
歓迎の準備が間に合わず、お客さんに料理を手伝ってもらったこと。
翌日は、残ったごちそうを実家に運んで、今度は家族で宴会をしたこと。

どれもこれも父の苦手な話題だった。
私の話を一通り聞き終えると、父は言った。

「それは良いことをしたな。楽しかったろう」

さっきまで、お楽しみ会を頑なに拒んでいた父は、穏やかに微笑みながら、言葉を続けた。

「雪は、降ったばかりの時は良い。柔らかくて、白くて、きれいだ。
でも、しばらくすると、凍って固くなる。
光の具合で見えなくもなるし、汚れた色にもなる。

日の当たるところは良いんだ。いずれ融けてしまうから。

日陰の雪は、すっかり固くなってしまって、融かすことも、どかすことも、どうにもできなくなる。
だから、日陰の雪には気を付けないといけない」

父は、窓の外を指さした。
その先には、ブロック塀の陰に、黒っぽく固まった雪があった。
きっと、あの日陰の雪は、いつまでも融けることなく、徐々に固さを増していくのだろう。
しばらく黙ったまま、二人で日陰の雪を眺めた。

「じゃ、暗くならないうちに帰る。また来るわ」
「日陰の雪には気を付けてな」

一人になって歩きながら、父の言葉を思い返した。

二度目に「日陰の雪」の話が出たとき、
話題が窓外の景色に移った、とは、私には思えなかった。
いったい、父は何を「日陰の雪」に喩えていたのだろう。
気難しく、人と一緒にその場を楽しむことを大の苦手とする父は、そんな自分の頑固さを、
「すっかり固くなってしまって、融かすことも、どかすことも、どうにもできなくなった日陰の雪」
に喩えたのだろうか。

「まだ柔らかくて、白くて、きれいなうちに、
お前は、日の当たるところに出て、融かしてしまいなさい。
決して、固くなってはいけない」
そんなメッセージが聞こえた気がした。

私の人生において、「日陰の雪」になり得るものは、何だろう。
今のうちに、日の当たるところに出して、融かしてしまうべきものは、何だろう。

そもそも実のところ、父が「日陰の雪」に喩えたかったのは、何だろう。

2013年1月17日木曜日

ある1時間

私の名が書かれた、古い古い段ボール箱を、実家から我が城に運び込んだ。
目的は、中身を確認して整理すること、早い話が、捨てることだ。

箱を開けると、まず古い古い茶封筒が出てきた。
その中には、古い古い手紙が入っていた。

小学校入学からの2年間、担任としてお世話になった先生からの手紙だった。
小学2年生最後の日に、恐らく、先生はクラス全員に手紙をくださったのだろう。

その先生は、詩作とハモニカ演奏に、特に力を注がれていた。
国語の授業では、頻繁に詩を読まされ、書かされた。
「朝の会」と「帰りの会」では、毎日必ずクラス全員でハモニカ演奏を数曲ずつした。

そのクラスでの二年間、私は「ハモニカ係」なる役割を担っていた。
「朝の会」と「帰りの会」のハモニカ演奏時になると、教壇に立ち、
「こんどは『××の歌』を吹きましょう!いち・にの・さ~ん!」と掛け声を掛ける、という係である。
今思い返してみると、果たして、役に立つのか立たないのか、悩ましい役割である。
しかし、幼い頃からお調子者だった私には、ちょうど良い役割だったのだろう。
それが楽しくて仕方がなかった、という記憶だけは、うっすらと甦ってくる。

こんな不思議な「ハモニカ係」、
先生はよくぞ発案し、また、私に就任させてくれたものだ、と今更ながら感心した。
先生はいつも、私のファーストネームを少しだけ変形させて「○○」と呼んでくれたっけ。
そんなことを思い出しながら、手紙を開いた。

「ハモニカ係さん、おつかれさん。
大きな口で、大きな声で、『いち・にの・さ~ん!』
先生、いつまでもわすれません。
ああいう宝物を、どうして録音しておかなかったのかと、こうかいしています。
かわいい かわいい おマセな○○、
サヨナラ、○○」


読んだ手紙をきれいに畳んで封筒に入れ直し、段ボール箱に戻した。

そもそもは、古い古い段ボール箱を、捨てるつもりで開けたはずだったけれど、
私のしたことと言えば、手紙を一通読んだだけだった。
古い古い段ボール箱の中身は、何一つ捨てられることなく、運び込んだままの状態に戻った。


気付いたら、ちょうど1時間が経っていた。

2013年1月13日日曜日

欲深さにつける薬

自らの欲深さに悩む患者が、診察室を訪ねた。

患者: 先生、欲深さにつける薬なんてものは、ありますか?
医師: ええ、ありますよ。とりあえず一週間分出しておきましょう。
患者: どうか先生、そんなことおっしゃらずに。沢山ほしいんです。ありったけください!

2013年1月9日水曜日

世界の終わり

むかーし、むかし、まだ私が小学生だった頃のこと。

「1999年7月、世界の終わりが来る」と、まことしやかに噂されていた。
少なくとも当時の私の世界、つまり、通っていた小学校や、近所の友達の多くが、
ことあるごとに、そんな噂を囁いた。

こんな噂に対し、文字通り『半信半疑』だった私は、
『信』の方の半分のお蔭で、世界の終わりを想像し始めた。

1999年に世界の終わりが来るならば、その時には、地球が粉々になってしまうのかな。
粉々の地球から、人々は、みんなテンデンバラバラに放り出されてしまうのかな。
家族も、友達も、喧嘩した相手も、知らない人も、みんなみんな、バラバラになるのかな。
一人ぼっちで宇宙に放り出されたら、どうなるだろう。
私は宇宙服も着ていないし、酸素ボンベも持っていない。
きっとその時、私の人生も終わるんだ。
そうすると、私は何歳で人生の幕を閉じるのだろう?

計算用紙に、1999から自分の生まれ年を引き算してみた。
1999年に世界が終ると仮定した場合における、私の人生の年数が算出された。

42歳か・・・。
本当に私、いつか、42歳のオバサンになるのだろうか。
まるっきり想像つかないや。
もしかすると、そのころには案外、オジサンになってるかもしれない。
42歳のオバサンまたはオジサンになった私は、一人ぼっちで宇宙に放り出されても怖くないのかな。

しばらくの間は、そんな不安に苛まれていたものの、
『疑』の方の半分のお蔭だろうか、いつの間にか、忘れていた。

さて、気づいたら、1999年が来ていた。
えーっと、世界の終わりは今年の何月に来るんだっけ?
そういえば、世界が終るとき、たしか、私は42歳になっているはず・・・

あれ?
まだ私、42歳になってない。
改めて計算用紙に、1999から自分の生まれ年を引き算してみた。
2、3度検算した結果は全て等しく、それは、42とは異なる値だった。
小学生時代の私の計算は、一の位も、十の位も、どちらも誤っていたことが判明した。
しかも、この計算、1999から19XXの引き算なので、繰り下がりは一切ない。
にも拘らず、全くのお門違いな計算結果を出していたのだ。

もし、こんなに酷い計算間違いをした私が数学を専攻したという不条理が原因で、
世界がご機嫌を損ね、それで世界の終わりが来てしまったら、どうしよう。
世界中の皆さんに申し訳ない気がした。

けれど、1999年が終っても、世界は終わらなかった。
酷い計算間違いをしても、そんな計算間違いをする私が数学を専攻しても、
世界はご機嫌を損ねなかった。
世界は、こんな私も許してくれた。
世界って、寛容なところあるんだな。