我が実家では、葉物の野菜をまとめ買いした時、
いっぺんに茹でて弁当箱に詰め、冷蔵庫に入れておく。
その際、弁当箱の中身がひと目でわかるように、
茹でた日付と野菜の名前を記したメモを、弁当箱に貼り付ける。
先日実家に帰り、冷蔵庫を開けると、いくつかの弁当箱があった。
その一つには、桃色の短冊が貼られ、兄弟の手でこう書かれていた。
「七月七日 ホウレンソウでありますように」
弁当箱を開けると、茹でたホウレンソウが入っていた。
兄弟の七夕の願いは叶えられた。
短冊の筆跡の主は言った。
「ホウレンソウがホウレンソウなら、何よりでしょう」
ホウレンソウが小松菜になろうとしたり、
カブが大根になろうとしたりしても、
どだい無理な相談だ。
そんな無理を押し通そうとしたところで、授かった命を損ねるだけで、
自分にも、周りの他人にも、無理で生じたシワ寄せが滞るばかりだ。
だから、誰もがそれぞれ、自分自身でいられることが、一番だ。
「自分自身でい続ける」ことは、当たり前のようでいて、思いのほか難しい。
だからこそ、誰もがそれぞれ、自分自身でいられますように。
我が兄弟の短冊には、そんな願いが込められているように思えた。
実家からの帰り道、見上げると星が出ていた。
ちょっぴり遅ればせながら、七夕の願い事をした。
私が私でありますように。
あなたがあなたでありますように。
それぞれが、それぞれ自身でありますように。
そして、ホウレンソウがホウレンソウでありますように。