2012年5月10日木曜日

護身術

何年前になるだろう。初めて海外出張に飛ばされたときのこと。

小さな荷物と、そして大きな不安と共に、空港に降り立った私はホテルに向かった。
タクシーの運転手さんは、胸板の厚い、白髪まじりの坊主頭をした、コワモテのオジサンだった。
映画の中なら、きっとマフィアの親分の用心棒役でも演じそうな彼に、私は恐る恐る話しかけた。

「あのー、私、日本の、東京から来たんです」
「……」
「この街は、初めてなんです」
「……」

聞こえないことはなさそうだが、オジサンは相槌も打たなければ表情も変えない。
こんな単純な文でさえ聞き取ってもらえないほど、私の言葉には日本語訛りが強いのだろうか。

「ここは、大きな町ですね」
「東京は小さな村なのか」

バックミラーを介して初めて目を合わせた。
5秒前までは怖かったオジサンが、親戚のように感じられた。

「私、こうして窓の外を眺めていても、右も左も東西南北も、全然分からない」
「心配するな。俺には分かる」

この時彼は、道路事情のことを言ったのだろう。
しかし私には、「俺にはお前の気持ちが分かるから、心配しなくていいよ」と言われた気がした。

彼の姪っ子にでもなった気分で、
小さな旅行カバンには到底収まりきらない大きな不安を、片っ端から打ち明けた。

本来なら超有能な上司がするはずの出張を、今回に限り「忙しい」の一言で私に振られたこと。
海外出張も、国際会議も、フォーラムでの発表も、何もかも生まれて初めてであること。
ド偉い面々が勢揃いする会議に、私のような小娘が出ては場違いな気がすること。
ド偉く難しい話を英語で議論されても、そもそも英語の苦手な私には、何も分かりそうにないこと。
人前に出るのが大の苦手だから、フォーラムで発表するのも怖いし、よもや質問などされようものなら、間違いなく卒倒しそうなこと……

「知った振りをしないことだ」

ずっと黙って聞き役に徹していた彼が、突然言葉を発した。
ポカンとしている私を見て、彼は続けた。

「自分に分かることがあれば、それだけを話しなさい。
分からないときは、黙っていればいい。
そうすれば、たとえド偉い奴ら100万人の前に出ても、お前は尊厳ある一個の人間だ。
分からないのに知った振りをして話すと、自らの尊厳を傷つけるうえに、場違いにもなる」

とてつもなく重く感じられていた肩の荷が、いっぺんに軽くなった。
それまでの緊張と不安で、身体の周りに硬く張られた殻が、ボロリと落ちた気がした。

すると、落ちた殻の下にうごめいていた、漠然とした別の不安が顔を出した。

「それにね、それに、知り合いもいない、全く知らない大都会に一人で放り出されて……」
「誰かに取って食われるのが怖いってか?」
そう、その通り。私は黙ったまま、ミラー越しに頷いて見せた。

「身を守るためにすべきことはただ一つ。
『自分はかけがえのない存在である』という認識を、片時も忘れないことだ。
自分を安く見積もることがなければ、悪い奴はまず寄ってこない」

それからしばらく、私たちは口を利かなかった。
その沈黙は、なんとも心地好い安心感、そのものだった。

ホテルに着くと、オジサンはトランクから荷物を降ろした。
「発表が上手くいくように祈ってるよ!」
手を振って運転席に戻ると、あっという間に見えなくなった。

タクシーを降りた私は、一人っきりで大都会に立っていた。

私の手には、東京から持ってきた小さな荷物があった。
東京から担いできた大きな不安は、もうそこにはなかった。
引き換えに、オジサンから教えられた二つの護身術が、私の胸に刻まれていた。