2012年7月30日月曜日

女の特権

暑くて暑くて、殆ど水着のような格好で仕事をしていたら、そこに、男性同僚が現れた。
ネクタイこそ締めていないものの、半袖シャツに長ズボンという常識的な服装だ。
彼は私を見るなり言った。

「羨ましい。それは女の特権ですね。
もし僕がその格好で表に出たら、『裸の大将』と呼ばれること必至です」

・・・ちょっとだけ、女に生まれて得した気がした。

でもでも、やっぱり、
女の特権を活用したい日は、まだまだ続きそうだけれど、
明日からは節度ある服装で仕事に臨もう。

2012年7月27日金曜日

カメラ小僧とグラビアアイドル

ある朝、いつものように、近所の池へ走りに行くと、
池のほとりに、立派なカメラを構えた少年、もとい、むかし少年だった紳士がいた。

時々立ったりしゃがんだり、右へ左へずれてみたりしては、
真剣にカメラを構え、シャッターを切り続けている。
今にも、「良いねぇ、その表情。じゃ、横からも撮ってみようか?」という声が聞こえてきそうだ。
その様子は、差し詰め、グラビアアイドル撮影という光栄に浴するカメラ小僧、といったところだ。

少し進むと、やはり池のほとりに、別の人影が見えた。
やっぱり彼も、立派なカメラを構えた、そのむかし少年だった紳士である。
そしてやっぱり、時々立ったりしゃがんだり、右へ左へずれてみたりしては、
真剣にカメラを構え、シャッターを切り続けている。
今にも、「 良いねぇ 、その表情。じゃ、横からも撮ってみようか?」という声が聞こえてきそうで、
差し詰め、グラビアアイドル撮影という光栄に浴するカメラ小僧、といった様子も、やっぱり同じだ。

ぐるりと走って二周目に入り、最初のカメラ小僧の場所に戻ると、
カメラ小僧は更に二人増えていた。
皆、池のほとりに立ち、池に向かってカメラを構えている。

ところで、肝心なグラビアアイドルはどこだろう?

カメラの構えられた先、池のほうに目を向けると、今年最初の蓮の花(*)が咲いていた。
なるほど、これがグラビアアイドルだったのか!

あれから、
池のほとりのカメラ小僧と、池に咲くグラビアアイドルとは、まるで競い合うように、
日を追って増えている。

2012年7月19日木曜日

メジャーと体重計

ここ数ヶ月、不都合を感じていることがある。
それは、私の身体と衣服との寸法上の齟齬だ。

ある朝、着替えると、なんだか窮屈に感じた。
「服が縮んだかな?洗濯の仕方が荒かったかな?」と思った。

翌朝、別の服に着替えたものの、やはり窮屈だった。
「これも縮んだかな?何でも洗濯機でガラガラやるのは良くないかな?」と思った。

その翌朝も、そのまた翌朝も、毎朝それが続いた。
衣替えをしても、まだまだ同様の朝が続いた。


そんなある日、実家に帰ると、一ヶ月振りに顔を合わせた兄弟から、
「顔と体がまん丸な人、お帰りなさい」との歓迎を受けた。

別のある日、友人の母上と一年振りにお会いした。
「あらまあ、ふっくらしして可愛いこと!」

また別のある日、三ヶ月ぶりにお目にかかった恩師からは、
第一声、「太った?」と尋ねられた。

そうか!私が太ったのか!

毎朝、毎朝、どの服に着替えても窮屈に感じる日々が何ヶ月も続いている。
しかも、服の丈方向には、これといった変化は見られない。
洗濯や保管のコンディションのために、全ての服が幅方向のみ縮んだ、とは考えにくい。
衣類の側に変化はなく、私の身体が太くなった、という解釈が妥当だろう。

更に、この解釈のうえに立てば、
兄弟からの歓迎の言葉も、友人の母上の挨拶も、容易に説明がつく。

私は恩師の質問に答えた。「ええ、まあ、たぶん・・・」
「だいぶ増えたでしょう?5kgくらい?」
「ええ、まあ、たぶん・・・」
「じゃあ、寸法もだいぶ増えたのね。どれくらい?5cmくらい?」
「ええ、まあ、たぶん・・・」

私の歯切れ悪さには、訳がある。

我が城には、メジャーも体重計もある。
しかし、メジャーは家具の寸法を測るために、体重計は大きな荷物の重さを量るために、
もっぱら使用してきた。

自分の持ち物であるメジャーと体重計を用いて、自分の身体を計測したことが、ない。
自分の身体に関しては、従来の寸法も重さも不明であり、現在の寸法も重さも不明である。
従って、それぞれの増加量も不明なのだ。

箪笥の服が軒並み窮屈になってしまった今、
いよいよ、 自分の持ち物であるメジャーと体重計を用いて、自分の身体を計測する時が来た、
と判断すべきだろうか?

待てよ。
今、不都合を感じているのは、私の身体と衣服との寸法上の齟齬だ。
私の身体を何度計測してみたところで、衣服との寸法上の関係に影響を及ぼすとは考えにくい。

いっそのこと、服の寸法や重さでも計ってみるか。
それで向こうさんが気を利かして、こちらに合わせてくれると、助かるんだけどなぁ。

2012年7月5日木曜日

お家に帰れば沢山あるもの

友人が、お嬢さんと一緒に、我が城を訪問してくれた。

間もなく2歳になろうという小さなお姫様は、到着するや否や、
「あっ、何かある!」と、部屋の隅に駆け出した。
我が城唯一のぬいぐるみを目敏く見つけると、まるで体温計のように、素早く脇に挟んだ。

それを見て、ママは言った。
「あらまぁ、ぬいぐるみはお家に帰れば沢山あるでしょう?」


しばらくの後、小さなお姫様は、またも
「あっ、何かある!」と、今度はベランダの隅を指差した。
「ゴミだ!ゴミ見つけた!」

それを聞いて、ママは言った。
「あらまぁ、ゴミはお家に帰れば掃いて捨てるほど沢山あるでしょう?」

2012年7月1日日曜日

小娘の夢

オジサン、もとい、社会でご活躍中の立派な紳士二人の会話の断片が耳に入った。

「女性からさぁ、『子どもが欲しい』って言われちゃうと、男性としてはプレッシャーだよね」

えっ、「子どもが欲しい」がプレッシャー?
ちょっと待って、どういうこと?

私は一人、心の中で、そのオジサン、もとい、社会でご活躍中の立派な紳士に問いかけた。

彼は、「子どもが欲しい」という言葉を、どんなメッセージとして受取ったのだろうか?
「発芽率100%保障の種を植えてください」というメッセージとして受取った結果、
プレッシャーを感じてしまったのだろうか?
しかし、結果的に「授かるか否か」は、飽くまでも神様の責任範囲であり、
男性も女性も、高名なお医者様でも、何しろ人間様には決められないのが実情だろう。

一方、「子どもが欲しい」と言う女性の側が発するメッセージは、何だろう?

もちろん、人それぞれ異なるはずで、一概には何とも言えない。
中には、男性に対して種馬的要素を強く求める女性もいるだろう。
気の毒にも、くだんの紳士は、愛する人のそうした強い願いを叶えてあげたいばっかりに、
本来ならば神様の責任範囲である「授かるか否か」にまで、自分の責任が及ぶものと見誤り、
悩み、苦しんだ経験を持つのかもしれない。

実際、世の中には、この「授かるか否か」という問題のどちらの側にも、
悩み、苦しむ人々がいることだろう。
そんな人たちの悩みや苦しみを、ひいては、全ての人の悩みや苦しみを想像することが、
弱虫の私には、恐ろしくて、どうしてもできない。
どうにも真正面からは考えられそうにないのである。

だったら、いっそのこと、別の問題として考えてみよう。

ところで、ここで、一つだけ断言できることがある。
それは、もしも、いつの日か、私がパートナーに対して「子どもが欲しい」と言う時が来たなら、
そこに込めるメッセージは全く異なる、ということだ。

私なら、こう考える。

この人は、世界と自分の人生とを、どのくらいのスパンで結び付けているだろう?
人生、即ち、様々な行動や不行動の決断の連続において、その決断の根拠を、どの程度の深さに根付かせているだろう?

今、とりあえず、この場限り、何とかやり過ごせれば、それで良いの?
今年度を、何とか〆られれば、それで良いの?
定年までを、何とかこなせれば、それで良いの?
老後を安定して暮らせたら、それで良いの?

それとも、次の世代の誰かのために、チッポケな自分なりに、チョッピリでも貢献したいの?

もし、世界と自分の人生とを、次の世代に繋がるスパンで結びつけていたら、
もし、人生、即ち、様々な行動や不行動の決断の連続において、
その決断の根拠を、自分だけでも、今だけでもなく、世代を超える深さに根付かせていたら、
きっと、未来は素晴らしいものになる。
きっと、現在は希望に満ちたものになる。
きっと、過去からは、より多くを学ぶことができる。

たとえ、
未熟で愚かでチッポケな私たちが、幾つもの失敗を重ねていくことに変わりはなくても、
きっと、この命題は真である、と信じている。

この場合、「子どもが欲しい」という言葉において、「授かるか否か」を問うことはない。
ここでの「子ども」は、「次の世代」であり、未来に関して、希望や責任を共有することを指す。

その上で、「子どもが欲しい」と言った時、
「これからは、世界と、あなたの人生と、私の人生とを、次の世代にまでも結び付けましょう」
というメッセージを込めることになる。


その後、あの紳士達の会話は、どのように展開していったのだろうか。
それとも、その場限り、ウヤムヤになったろうか。

社会でご活躍中の立派な紳士淑女のうちの、たった一人でも、
チッポケな小娘のこんなメッセージに、いつか、どこかで、共鳴してくれることを、
ついつい、夢見てしまう。