仕事をしていると、電話のベルが鳴った。
「この間のことだけど、ゴメン。やっぱり、お母さんが間違ってたわ」
受話器から聞こえる母の声は、普段より沈んていた。
しかし、私には謝られるような心当たりがない。
前回実家に帰ったときも、これと言って行き違いもなければ、気まずいこともなかった・・・と思う。
何について謝られているのか、何を間違ったのか、兎にも角にも確認する必要があった。
「何を間違ってしまったの?」
「こないだ話してた、あれよ」
「あれって?」
「お母さん・・・読んだのよ」
「何を?」
「だから、このあいだ言ってた、あれを。ほら、あそこで」
「どこで?」
「う~ん・・・」
私はあまりにも質問を畳み掛け過ぎてしまったようだ。
沈んだ母の声は、言い澱んだままだった。
何を間違ったのか確認して、すぐに謎から抜け出すはずが、
かえって、会話がはまり込んだ謎の淵に、更に深く深く、足を取られていった。
取り急ぎ頭を整理する必要がある。
いま分かっていることは、
① 最近私が実家に帰ったときに話題に上った案件である
② 母は、①に関し、何かを、どこかで、読んだ
③ ②の結果として、彼女は自らの過失に気付いた
④ ③に関して、私への謝罪がなされた
の4点である。
これら4つの条件を全て満たす『何か』をいきなり見つけることは、ほぼ不可能に思えた。
とりあえず、①②を満たす案件、つまり、
「最近、実家で話題にしたことで、何らか文字情報として読むことが可能なもの」は、
あるだろうか?
あった。このブログだ。
確かに、実家で話題に上ったし、読むことが可能な文字情報だ。
更に母は、これを「ほら、あそこで」読んだ、と言った。
実家には、パソコンが子ども(といっても十分大人の)部屋に一台あるのみで、
そこは母のテリトリーでないことから、「ほら、あそこ」と指差して言ったのかもしれない。
①と②はクリアした。
残るは、③と④、「母の過失」と、「私への謝罪」である。
母に限らず、誰かの過失に対する非難として受け取れる書きかたのないよう、心掛けてはいるつもりだが、やはり配慮が不足していたのかもしれない。
彼女は一体、何を自らの過失と認め、そして、なぜ私に謝罪したのか?
そうだ。考えられることと言えば、「末娘の子育て」だ。
彼女はこのブログを読んで、
自らが産み、育てた末娘のあまりのトンマ振りに、改めて驚いたのだろう。
そして、子育て、少なくとも末娘の子育てに関し、自らの過失を認めた。
更には、その過失の結果として、そんなトンマを疑いなくまっしぐらに突き進む私に、
せめてもの謝罪を述べたのかもしれない。
これで、③と④もクリアした。
軽い気持ちで投稿を重ねてきたが、
まさか実の母親に、ここまで打撃を与えてしまうとは、思いもよらなかった。
今からこのトンマを直すことは至難の業だし、一生かかっても完了できないかもしれない。
すぐに手をつけられることと言えば、このブログを閉じることくらいだ。
もう潮時、ということだろうか・・・。
案外短かったな。止めると思うと名残惜しい気がする。
そう思った時だった。
「ほら、駅前のスーパーで!」
受話器の向こうの母は言った。
しかし、駅前のスーパーでは、このブログを読むことはできない。
よくよく話を聞いてみると、こういうことだった。
実家近くの駅前のスーパーでは、使用済みスチロールトレイの回収をしている。
母はこれまで、納豆のトレイも綺麗に洗って回収ボックスに入れていた。
一方、私の住む地域では、納豆のトレイは回収対象外であるため、それを相違点として母に伝えた。
彼女は駅前のスーパーに行き、改めて注意書きを読んだところ、
そこでも納豆のトレイは回収対象外であることが判明した。
なるほど、確かにこれで、①~③はクリアしているものの、
最後の④、すなわち、なぜ私に謝ったのか、は未だ説明できていない。
更に話を聞いてみたところ、
回収ボックスに謝るのも変だし、そうかと言って黙っているのも収まりがつかずに、
誰に向けて良いかも分からない気持ちを、とりあえず私にぶっつけてみたらしいことが分かった。
晴れて①から④の全てがクリアされた。
母と私は、トレイ回収に関する正しい情報を得たことを共に喜び、今後はそれに従って分別することを約束して、電話を切った。
幸か不幸か、パソコンの苦手な母は、未だこのブログを目にしていないようだ。
末娘の子育てをひどく失敗した、と気に病んでもいないらしい。
やはり当面は、ブログを閉じることなく、ここでノーテンキな投稿を続けてみることにしよう。
窓を開けると、抜けるような青空が見えた。
個人にせよ地域にせよ世界にせよ、あらゆるレベルにおいて、様々な困難が尽きないけれど、
有難いことに、トレイ回収の注意事項が大問題として扱われるくらいに、
少なくとも、たった今だけでも、我が家は平和だ。
こんなチッポケな平和を、この空の下の全ての人が、
それぞれの暮らしの中で、自分のものとして享受できることを、願ってやまない。