2016年9月11日日曜日

オヤジさん

「これ、オヤジさんからプレゼント」
出張先に着くなり、小さな箱を手渡された。
箱の中には、厚手で、ちょっと大振りで、重みのある、真新しい湯呑茶碗が入っていた。
以前、やはり出張でここへ来た時、業務後に入ったおすし屋さんの名前が、
ぐるりと一周かけて大きく書いてある。
そうそう、ネタと味が良いうえに、とにかく盛りが良かったっけ。
文字通りすし詰めになったお腹を抱えて、帰りの特急列車に乗った、あの超満足感が甦った。(*)

「『これ、作ったから、あの人に』だって。ぶっきらぼうなオヤジさんだよね」

常連さんに連れられていたとはいえ、私自身は一度しか行ったことがない。
その上、東京に住んでいては、これから上客になることもないだろう。
そんな私のことも思い出してくれたんだな、と嬉しくなった。


あの街での仕事が終わり、訪れなくなって数年が経つけれど、
今でも食後のお茶を飲んでいるのは、この湯呑茶碗だ。

いつか休みを取って、また行ってみよう。
その時は、うんとお腹を空かせておくからね。オヤジさん。

2016年9月4日日曜日

叔母からの電話

寝床の支度をしていると、電話が鳴った。
出ると、叔母が声を潜めて言った。

「あんた、今、どこ?」
「部屋だよ」
「もう帰ってるのね。まあ、それならいいわ」

叔母の謎めいた話し振りが引っ掛かった。
帰っているならとりあえず良し、ということは、表に出ていたら危険でもあるのだろうか。

「何かあったの?」
「ちょっとね。知ってる?殺人事件」

やはり、ただ事ではない。
事件は近隣で起きたのだろうか。

「どこで?」
「それが良く分からないのよ。ナントカ街ってとこらしいんだけど」

ナントカ街、それではあまりにも漠然とし過ぎている。
仮に○○商店街だったら、目と鼻の先だ。もう一歩も外に出られない。
物騒なものはどこで起きても物騒だが、せめておよその地域だけでも知っておきたい。

「ナントカ街とだけ言われても……、例えば横浜中華街とか?渋谷センター街とか?」
「いいえ、『も・る・ぐ・が・い』って言うらしいの。知ってる?」

あまり繁華街に出ることがないためだろうか、聞いたことのない名前だった。
一体、どこにあるのだろう。

「知らない……」
「全く困った子ね。『モルグ街の殺人』ってのがあったらしいのよ。読んでないの?」

読んであって当然のような言い方だ。
新聞の号外でも配られたのだろうか。
そんな騒ぎになっていたとは、露ぞ知らなかった。
我ながら、あまりの世間知らずさに背筋が寒くなった。

「読んで、ない」
「そう、仕方ないわね。
 小説の作者の名前なんだけどね。
 アルファベット三文字、『P』で始まって、『E』で終わるのよ。
 真ん中の文字、調べてくれる?」

どうやら、『モルグ街の殺人』はフィクションで、そんな題名の小説があるらしい。
そしてどうやら、叔母は現在英語クロスワードパズルと格闘中で、
一つだけ答えを埋められずに残ってしまったらしい。

パソコンの電源を入れ、ネット検索して、答えを知らせるメールを送ると、途端に返信が来た。

「ありがとう!完璧なのができました。夜更かししてないで早くおやすみ」

「え、夜更かしさせたのは誰?」と思うと同時に、
いつもなら、気にも留めないことに気が付いた。

英語クロスワードパズルに翻弄され、夜更かしを戒められる。
なんと平和なことだろう。
たとえ、「とりあえず、当座だけかもしれないけれど」という条件付きにせよ、
今宵は有難くそれを享受しよう。

叔母さん、こちらこそありがとう。