珍しく、一問にかなりの時間を掛けて解き終えた彼は、
軽くため息をつくと、部屋中をゆっくりと見回し、誰かの名を言った。
誰だろう。
苗字も名前も、この生徒さんとは異なる。
憧れのアイドルにしてはパッとしない名前だ。
クラスメイトにしてもイマドキっぽくない。
学校の先生だろうか。
そんなことを思っていると、もう一度同じ名を言った。
誰だろう?
私の口から出かかっている疑問を、彼の方が口にした。
「誰ですか?」
「え?いま私、『誰だろう?』と思っていたんだけど……。」
「知らないんですか?」
「うん、知らない。」
「自分で書いたんじゃないんですか?ほら、あれ。」
彼の指差す先に目を遣ると、付箋が貼ってある。
そこには、確かに私の字で、彼の読んだ通りの名が書いてあった。
ああ、これか。
ある日、何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
聴くつもりなんてまるでなかったはずなのに、風呂に入るのも忘れ、
タオルを抱きかかえたまま、私はラジオの前に正座していた。
気付いたときにはドラマが終わり、エンドロール風のものが読み上げられていた。
そんな出来事があったことも忘れた頃の、また別のある日、
やはり何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
そしてまたもや私はタオルを抱きかかえたまま時の経つのも忘れ、
ラジオの前に正座して、そこで繰り広げられるドラマに夢中になっていた。
エンドロールで読まれた作者名が、前回と似ている気がした。
またまた忘れた頃のある日、同じようなことがあった。
エンドロールの作者名は、確かに前回と同じだ。
こうなったら、もう忘れるわけにはいくまい。
図書館でこの名前を調べてみよう。
彼が指差したのは、そう思って書き留めておいたメモだった。
このいきさつを伝えると、彼は少し残念そうな顔をして言った。
「好きな人の名前かと思った。」
好きな人の名前って、忘れないようにメモするものだろうか。
あの時は、自分でメモしたことさえ忘れていたけれど、
彼の言葉をきっかけにその名を調べた。
結局今では、その人の主宰する劇団の芝居を見に行き、その人の書くエッセイを読み、
もっと他にないものかと、時には慣れないネット検索までしてしまう。
今さらではあるけれど、そうです。あなたの仰る通り。
あの時あなたが読み上げて指差したもの、
それはまぎれもなく「好きな人の名前」です。
2019年12月22日日曜日
2019年12月17日火曜日
男のカン
風呂に入っていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
安普請のアパートでは、表の声まで良く聞き取れる。
「配達でーす!」
どうやら宅配便のお兄さんらしい。
昨夜ネットで注文したアレ、もう届いちゃうんだ。早いなぁ。
そうは言っても全身泡だらけの私、どうにもここから出られない。
如何に安普請のアパートといえども、表の様子まで見えるわけではない。
けれど二つ目の質問では、小指を突き立てるオジサンの姿がありありと目に浮かぶ。
「あの部屋の女(つまり私)は、あなたのカノジョですか?」と問うていたのだ。
オジサン、ごめん。
私が日頃から男の二、三人も侍らかしていれば、そんな心配しなくて済んだのに。
しかも答えが「不在票」では、どれほどガッカリしたことだろう。
安普請のアパートでは、表の声まで良く聞き取れる。
「配達でーす!」
どうやら宅配便のお兄さんらしい。
昨夜ネットで注文したアレ、もう届いちゃうんだ。早いなぁ。
そうは言っても全身泡だらけの私、どうにもここから出られない。
お兄さん、ごめん。
再配達の時は、三秒以内に出るからね。
心の中で詫びていると、二度目の呼び鈴が鳴り、「配達でーす!」が聞こえた。
しばしの間があって、お兄さんの足音は遠ざかり始めた。
その時だった。
「あんた、何しに来たの?」隣のオジサンの声だ。
「宅配便で不在票を入れただけです。」お兄さんが応じる。
再配達の時は、三秒以内に出るからね。
心の中で詫びていると、二度目の呼び鈴が鳴り、「配達でーす!」が聞こえた。
しばしの間があって、お兄さんの足音は遠ざかり始めた。
その時だった。
「あんた、何しに来たの?」隣のオジサンの声だ。
「宅配便で不在票を入れただけです。」お兄さんが応じる。
「これ?」
畳みかけられる質問に、お兄さんは「不在票です」と繰り返した。
如何に安普請のアパートといえども、表の様子まで見えるわけではない。
けれど二つ目の質問では、小指を突き立てるオジサンの姿がありありと目に浮かぶ。
「あの部屋の女(つまり私)は、あなたのカノジョですか?」と問うていたのだ。
オジサン、ごめん。
私が日頃から男の二、三人も侍らかしていれば、そんな心配しなくて済んだのに。
しかも答えが「不在票」では、どれほどガッカリしたことだろう。
それにつけても男のカンというものは、なんとも当てにならんものだ。
そんなことを思った瞬間、再びオジサンの声がした。
そんなことを思った瞬間、再びオジサンの声がした。
「なぁんだ、てっきり誕生日のプレゼントでも持ってきたのかと思うじゃねぇか!」
そう、その通り。
これは「自分への誕生日プレゼントに」と、ひと月かけて選びに選び抜いた末、
ついに昨夜、ネットで注文したフライパンだった。
侮れませんな、男のカン。
そう、その通り。
これは「自分への誕生日プレゼントに」と、ひと月かけて選びに選び抜いた末、
ついに昨夜、ネットで注文したフライパンだった。
侮れませんな、男のカン。
2019年11月3日日曜日
2019年10月16日水曜日
カエルの子はカエル
お出掛けをした帰り道、
「せっかくオメカシしたんだもの」私は街中をぶらぶら歩き出した。
洒落たショーウィンドウが並ぶ中、間口の狭い一軒の店に足が向いた。
そこだけは何ともいえず庶民的だ。
店先には北海道○○産の大豆が置いてある。
随分キレイなお豆ね。ああ、ちょうど豆を切らしていたっけ。
一歩入ると北海道○○産の昆布が待っている。
肉厚で立派なものが、結構なお手頃価格だ。そうだ、昆布ももうすぐなくなるわ。
そこは都内の北海道だった。
せっかく北海道まで来たのだ。ご当地のものはここでしか手に入らない。
こうして、一歩、また一歩、店の奥へ、また奥へ、いざなわれるままに歩みを進めた。
一歩進めば、買い物かごには商品が一つないし二つ入る。
ウナギの寝床のような店内を隈なく点検し、一番奥のレジに着くと、
溢れんばかりの私のカゴは、もはや片手で持つことができない。
「重いので袋は二つに分けて、それぞれ二重にしておきますね。」
気の利いた店員さんである。
否、それ以前に、店の構造も品揃えも、そのうえ価格まで、気が利きすぎている。
珍しくオメカシをして街に出た私は、
大豆やら昆布やらの入った大きな袋を両手に下げて、やっとのことで帰宅した。
一人では消費しきれない食料をお裾分けしに実家へ帰ると、母が言った。
「お父さんも好きだったわね、アンテナショップ。」
そう、父が街に出ると、よくアンテナショップに寄っては、
大黒様のように大きな袋を幾つも提げて帰ってきたものだ。
そしてそれを見ては思ったものだ。
「遠くまで旅に出たわけでもあるまいに、物好きなオヤジさんだ」と。
何のことはない。気付けば父と同じことをしていた。
どうせ似るなら、他のところで似たかったなぁ。
「せっかくオメカシしたんだもの」私は街中をぶらぶら歩き出した。
洒落たショーウィンドウが並ぶ中、間口の狭い一軒の店に足が向いた。
そこだけは何ともいえず庶民的だ。
店先には北海道○○産の大豆が置いてある。
随分キレイなお豆ね。ああ、ちょうど豆を切らしていたっけ。
一歩入ると北海道○○産の昆布が待っている。
肉厚で立派なものが、結構なお手頃価格だ。そうだ、昆布ももうすぐなくなるわ。
そこは都内の北海道だった。
せっかく北海道まで来たのだ。ご当地のものはここでしか手に入らない。
こうして、一歩、また一歩、店の奥へ、また奥へ、いざなわれるままに歩みを進めた。
一歩進めば、買い物かごには商品が一つないし二つ入る。
ウナギの寝床のような店内を隈なく点検し、一番奥のレジに着くと、
溢れんばかりの私のカゴは、もはや片手で持つことができない。
「重いので袋は二つに分けて、それぞれ二重にしておきますね。」
気の利いた店員さんである。
否、それ以前に、店の構造も品揃えも、そのうえ価格まで、気が利きすぎている。
珍しくオメカシをして街に出た私は、
大豆やら昆布やらの入った大きな袋を両手に下げて、やっとのことで帰宅した。
一人では消費しきれない食料をお裾分けしに実家へ帰ると、母が言った。
「お父さんも好きだったわね、アンテナショップ。」
そう、父が街に出ると、よくアンテナショップに寄っては、
大黒様のように大きな袋を幾つも提げて帰ってきたものだ。
そしてそれを見ては思ったものだ。
「遠くまで旅に出たわけでもあるまいに、物好きなオヤジさんだ」と。
何のことはない。気付けば父と同じことをしていた。
どうせ似るなら、他のところで似たかったなぁ。
2019年9月14日土曜日
元カノ疑惑
いつだったか、
美容院から帰宅すると、珍しく父は私が髪を切ったことに気付いた。
「今日はグレース・ケリーの写真を見せて、その通りにしてもらったんだ。」
父は遠くへ目を遣り、深々とため息をついて言った。
「あれは実にイイ女だった……。」
美容院から帰宅すると、珍しく父は私が髪を切ったことに気付いた。
「今日はグレース・ケリーの写真を見せて、その通りにしてもらったんだ。」
父は遠くへ目を遣り、深々とため息をついて言った。
「あれは実にイイ女だった……。」
2019年6月1日土曜日
なんでも かんでも たべられる
健康診断の問診票とにらめっこしながら、母が何やら訝(いぶか)しがっている。
「『はい』か『いいえ』で答えなさい。
『なんでも かんでも たべられる』ですって。」
問診票でそんな尋ね方、果たしてするものだろうか?
健康診断の情報として、何を知ろうとしているのか、どうにも掴めない。
偏食について知りたいなら、「好き嫌いなく、なんでも食べる」といった表現が妥当だろう。
「いっそのこと、
『スリッパでもお鍋でも、なんでも食べます!』って答えてやろうかしら。」
いや、それにしても我が母上よ、
あなたはスリッパやお鍋までもお召し上がりか?
「『はい』か『いいえ』で答えなさい。
『なんでも かんでも たべられる』ですって。」
問診票でそんな尋ね方、果たしてするものだろうか?
健康診断の情報として、何を知ろうとしているのか、どうにも掴めない。
偏食について知りたいなら、「好き嫌いなく、なんでも食べる」といった表現が妥当だろう。
「いっそのこと、
『スリッパでもお鍋でも、なんでも食べます!』って答えてやろうかしら。」
質問も質問なら、答えも答えだ。
本人も「いっそのこと」というだけあって、随分と投げやりに出たものだ。
そもそも、「はい」か「いいえ」が求められているところで、
あまりにも答え方が自由過ぎるではないか。
「あら!」
自由人が何かを発見したらしい。
「『なんでも かんで たべられる』ですって!」
問診票は正しかった。
歯や歯茎、口腔内の問題の有無を知るために、「何でも噛んで食べられる」か、と尋ねていたのだ。
「いやね、なんでもかんでもひらがなで書くんだもの。」
確かに。
なんでもかんでもひらがなで書かれると、読みにくいばかりでなく、
こうした読み間違いを大いに誘発する。
まるで落とし穴でも掘られた気分だ。
あなたはスリッパやお鍋までもお召し上がりか?
2019年5月10日金曜日
万事順調
弟くん: どう、最近?
わたし: だいたい順調かな、給料が安いことを除けば。
弟くん: 心配するな。
給料ってのは、いつだって不十分なものさ。
つまりお前さんは今、一つの除外項目もなく、完璧に万事順調ってわけだ。
わたし: だいたい順調かな、給料が安いことを除けば。
弟くん: 心配するな。
給料ってのは、いつだって不十分なものさ。
つまりお前さんは今、一つの除外項目もなく、完璧に万事順調ってわけだ。
2019年4月6日土曜日
たき火あそび
盆だ正月だと言っては滞在している赤の他人の家がある。
少し日が経つけれど、かの第二の家族のもとで年越し滞在をしていた時のこと。
ご馳走にありつくためには、まずママの台所のお手伝いだ。
そんなさなか、
メインイベントである、除夜の鐘とシャンパンとご馳走を終えた後、表に出た。
彼の説明に従い、右に曲がって左に曲がり、けもの道を進んで石段を下りる。
たき火のにおいがしてきたと思ったら、
そこでは弟くんと髭面のお兄さんとがパイプ椅子に腰掛け、焼酎のお湯割りをチビチビやっていた。
たき火と言っても、焚いているのは落ち葉でなく、丸太の真ん中に穴を開け、内部に火をつけたものだ。
丸太の上ではヤカンがチンチン言っている。
近くにいると、思いのほか暖かい。
へえ、うまいことしたもんだ。
「これなら、家の庭でもできるね。」私の言葉に、弟くんは少し驚いたように見えた。
数日後、弟くんが言った。
「今日もまた、『たき火あそび』をするんだ!」
晩ごはんを食べていると、ガラス戸越しに庭から光が入ってくる。
何だかゆらゆらしていて、まるで火でも焚いているようだ。
何だろう。
ママも気になりだしたようで、漬物を取りに表に出た。
しかし戻って来た彼女からは一言もなく、何事もなかったかのようだ。
何だろう。
気になった私は、思いきってカーテンの裏に入り、ガラス戸の向こうを見た。
ああ、そうゆうこと!
私もママと同じように食卓に戻り、晩ごはんを続けた。
「あいつはどこに行った?」さすがのパパも何か感じたのだろう。
「あそこよ。」ママが庭を指差した。
「晩ごはんだぞ。」
「……。」
「呼んで来たらいいじゃないか。こんな目の前にいるなら。」
「……じゃあ、自分で呼んで来たら?」
「さっき漬物を取りに出た時、どうして呼ばなかったんだ?」
「……いま庭では、あの子が、たき火を挟んで、若い女の子と二人で、ワイン飲んで、デートしてるの。呼びたいなら、あなたご自分でどうぞ!」
「……。」さすがのパパだって、もう、ぐうの音も出ない。
パパとママと私の三人は、晩ごはんも、食後のお茶も、後片付けも、抜き足差し足、そうっと静かに過ごした。
弟くん、デートを楽しめたかな?
あ、それから弟くん。火遊びには、くれぐれも気を付けて。
少し日が経つけれど、かの第二の家族のもとで年越し滞在をしていた時のこと。
ご馳走にありつくためには、まずママの台所のお手伝いだ。
そんなさなか、
「これから『たき火あそび』をするんだ。来ない?」弟くんに誘われた。
彼は、盛り付け前のご馳走をチョイチョイとつまみ出し、うまく片手で持った2枚の皿に乗せると、鼻歌まじりにどこかへ消えた。メインイベントである、除夜の鐘とシャンパンとご馳走を終えた後、表に出た。
彼の説明に従い、右に曲がって左に曲がり、けもの道を進んで石段を下りる。
たき火のにおいがしてきたと思ったら、
そこでは弟くんと髭面のお兄さんとがパイプ椅子に腰掛け、焼酎のお湯割りをチビチビやっていた。
たき火と言っても、焚いているのは落ち葉でなく、丸太の真ん中に穴を開け、内部に火をつけたものだ。
丸太の上ではヤカンがチンチン言っている。
近くにいると、思いのほか暖かい。
へえ、うまいことしたもんだ。
「これなら、家の庭でもできるね。」私の言葉に、弟くんは少し驚いたように見えた。
数日後、弟くんが言った。
「今日もまた、『たき火あそび』をするんだ!」
晩ごはんを食べていると、ガラス戸越しに庭から光が入ってくる。
何だかゆらゆらしていて、まるで火でも焚いているようだ。
何だろう。
ママも気になりだしたようで、漬物を取りに表に出た。
しかし戻って来た彼女からは一言もなく、何事もなかったかのようだ。
何だろう。
気になった私は、思いきってカーテンの裏に入り、ガラス戸の向こうを見た。
ああ、そうゆうこと!
私もママと同じように食卓に戻り、晩ごはんを続けた。
「あいつはどこに行った?」さすがのパパも何か感じたのだろう。
「あそこよ。」ママが庭を指差した。
「晩ごはんだぞ。」
「……。」
「呼んで来たらいいじゃないか。こんな目の前にいるなら。」
「……じゃあ、自分で呼んで来たら?」
「さっき漬物を取りに出た時、どうして呼ばなかったんだ?」
「……いま庭では、あの子が、たき火を挟んで、若い女の子と二人で、ワイン飲んで、デートしてるの。呼びたいなら、あなたご自分でどうぞ!」
「……。」さすがのパパだって、もう、ぐうの音も出ない。
パパとママと私の三人は、晩ごはんも、食後のお茶も、後片付けも、抜き足差し足、そうっと静かに過ごした。
弟くん、デートを楽しめたかな?
あ、それから弟くん。火遊びには、くれぐれも気を付けて。
2019年1月18日金曜日
ターシ君と私
野良猫のターシ君は、パパが大好きだ。
ターシ君が来訪すると、パパは宝物のように彼を抱きかかえ、居間に入ってくる。
似たようなことはよくあるけれど、とりあえず、まあ、ある晩のこと、
パパは、ママの前にひざまずいて言った。
「おお、美しい最愛の妻よ、ターシ君に何か美味しいものをあげたいのだけど……。
「ダメよ。玄関にカリカリがあるでしょ」
「せっかくこうして家に来てくれたんだから、カリカリばっかりでなくて、たまには何かお肉とか……」
「ダメ」
「冷蔵庫に、ウインナーがあったよね!」
「ダメよ!それは明日の朝の人間用!」
「一つだけ。いや、半分だけ。いやいや、1センチだけ!」
パパの大きな手には、既に明朝の人間用ウインナーが握りこまれていることを、
ママは見て見ぬ振りをした。
パパはソファーに寝そべり、ターシ君を自分のお腹の上に座らせて、
テレビを見ながら、ターシ君の喉やら耳の後ろやらをゴシゴシする。
ウインナーのお礼に、ターシ君は喉をゴロゴロ鳴らして歌う。
歌うのに飽きると、ターシ君はプイと去っていく。
そんなターシ君を見ていたら、私がこの家族と知り合った頃が思い出された。
私は理由もなくフラリと彼らのもとに立ち寄った。
彼らはいつでも私の来訪を歓待し、食事をご馳走してくれた。
私が何か食べると、それだけでこの家族は皆、喜んだ。
他にも何か食べないか、と、次から次へと色んなものが目の前に並んだ。
彼らは、人見知りで口下手な私に、気の利いた会話を求めることはなかった。
私に求められたのは、生まれながらに天から与えられた食欲を発揮することくらいだった。
彼らは冗談やら昔話やらを語りながら、食事を勧め続けた。
それに応えて、というより、単に当時は若くてお腹が空いていたことと、
出された食事がどれもおいしかったこととで、私はひたすら食べ続けた。
満腹のあまり立ち上がることも出来ず、まどろみ始めたら、さすがに潮時だ。
「お腹いっぱい。もう入らない。美味しかった。ごちそうさま。」と言うと、
「美味しかったか。それは嬉しい。ありがとう。」と礼が返ってくる。
重いお腹を抱えながら、何とか立ち上がって失礼した。
彼らは「またいつでも遠慮なく食べにいらっしゃい!」と手を振った。
律儀な私はその言葉に従い、またいつでも遠慮なく食べに行った。
あの頃の私が、美味しいエサをくれるこの家に通う野良猫と重なって見えた。
彼らはそんな野良猫を、猫っ可愛がりする。
そして、飼いならした者の責任として、大切に育て続ける。
これから私は、自分で自分をどう育てていくのだろう。
そして彼らが私にしてくれたように、他者を受け入れ育てていけるのだろうか。
(2012/6/21 9:32)
ターシ君が来訪すると、パパは宝物のように彼を抱きかかえ、居間に入ってくる。
似たようなことはよくあるけれど、とりあえず、まあ、ある晩のこと、
パパは、ママの前にひざまずいて言った。
「おお、美しい最愛の妻よ、ターシ君に何か美味しいものをあげたいのだけど……。
「ダメよ。玄関にカリカリがあるでしょ」
「せっかくこうして家に来てくれたんだから、カリカリばっかりでなくて、たまには何かお肉とか……」
「ダメ」
「冷蔵庫に、ウインナーがあったよね!」
「ダメよ!それは明日の朝の人間用!」
「一つだけ。いや、半分だけ。いやいや、1センチだけ!」
パパの大きな手には、既に明朝の人間用ウインナーが握りこまれていることを、
ママは見て見ぬ振りをした。
パパはソファーに寝そべり、ターシ君を自分のお腹の上に座らせて、
テレビを見ながら、ターシ君の喉やら耳の後ろやらをゴシゴシする。
ウインナーのお礼に、ターシ君は喉をゴロゴロ鳴らして歌う。
歌うのに飽きると、ターシ君はプイと去っていく。
そんなターシ君を見ていたら、私がこの家族と知り合った頃が思い出された。
私は理由もなくフラリと彼らのもとに立ち寄った。
彼らはいつでも私の来訪を歓待し、食事をご馳走してくれた。
私が何か食べると、それだけでこの家族は皆、喜んだ。
他にも何か食べないか、と、次から次へと色んなものが目の前に並んだ。
彼らは、人見知りで口下手な私に、気の利いた会話を求めることはなかった。
私に求められたのは、生まれながらに天から与えられた食欲を発揮することくらいだった。
彼らは冗談やら昔話やらを語りながら、食事を勧め続けた。
それに応えて、というより、単に当時は若くてお腹が空いていたことと、
出された食事がどれもおいしかったこととで、私はひたすら食べ続けた。
満腹のあまり立ち上がることも出来ず、まどろみ始めたら、さすがに潮時だ。
「お腹いっぱい。もう入らない。美味しかった。ごちそうさま。」と言うと、
「美味しかったか。それは嬉しい。ありがとう。」と礼が返ってくる。
重いお腹を抱えながら、何とか立ち上がって失礼した。
彼らは「またいつでも遠慮なく食べにいらっしゃい!」と手を振った。
律儀な私はその言葉に従い、またいつでも遠慮なく食べに行った。
あの頃の私が、美味しいエサをくれるこの家に通う野良猫と重なって見えた。
彼らはそんな野良猫を、猫っ可愛がりする。
そして、飼いならした者の責任として、大切に育て続ける。
これから私は、自分で自分をどう育てていくのだろう。
そして彼らが私にしてくれたように、他者を受け入れ育てていけるのだろうか。
(2012/6/21 9:32)
2019年1月9日水曜日
ウォッカとミネラルウォーター
第二の家族として親しくしているお宅の、
そのまた親戚宅に3週間ほどご厄介になったときのこと。
到着後、3時間以内に私のしでかしたことは、
1.風呂場の戸を閉め損ねたままシャワーを浴び、廊下を水浸しにした
2.食器を洗っている最中、手を滑らせて皿を割った
3.お手洗いの中の、トイレットペーパー保管棚の扉を壊した
であった。
これまで私は、よそのお宅に着いた途端からくつろげることを特技と自負してきた。
しかし、殆ど面識のなかった方のお宅で、しかも到着後間もなく、
これだけのことをしたとなると、どうにも落ち着かない。
即日帰るか、別のどこかに泊まるか、穴があったら入るか、のいずれかを選択したいところだった。
しかし、帰りの飛行機は3週間後、格安チケットなので、日程の変更はできない。
その地域にある宿泊施設は一軒のみ、しかも1泊数万円以上のホテル。
そして、あたりを見渡したけれど、私の入れそうな穴は見当たらない。
予定通り、そのお宅に3週間滞在することにした。
肩身の狭い思いをどうにも払拭できず、常に、
「お手伝いすることはありませんか?皿洗いでも何でもします!」
という緊張感が解けることはなかった。
皿洗いは、断られた。
生後5ヶ月の男の子の子守を買って出た。
泣けば抱いてあやし、オムツを替えた。
近所のクリニックへ定期健診にも連れて行った。
客人が来れば、茶菓子を買いに走った。
ホームパーティーの前には、家中をピカピカに磨き上げた。
家政婦のように2週間ほどを過ごしたある晩、その家の主人が私に尋ねた。
「明日、何したい?」
「何でも!皆が出掛けるなら子守をするし、特になければ換気扇の掃除でもしようかな。」
「俺の質問にちゃんと答えろよ。
お前は、『自分がどう振舞ったら、皆が丸く収まるか』ばかり考えている。
今、俺が尋ねたのは、『お前自身が何をしたいか、どうしたいか』だ。」
客人として迎えたはずの私がくつろごうともせず、勝手に家政婦になっているのが、
この家の主に対していかに失礼なことであったろう。
「私自身が何をしたいか?どうしたいか?」改めて自分の胸に尋ねた。
「明日のことはまだ分からないけど、弾き語りが聞きたい。今!」
この家の主婦はギターが得意で、そのうえ歌も上手いと評判だ。なにしろ声が良い。
しかし、鼻歌しか耳にしたことがなかった。
「よし、弾き語りを肴に、飲み明かそう!」
彼は秘密の場所からウォッカのビンを出し、栓を抜いた。
主人のコップと私のコップに、ウォッカが注がれた。
乳飲み子を抱える主婦は、ミネラルウォーターを飲んだ。
ウォッカもミネラルウォーターも、コップに注げば見た目は同じだった。
彼女はギターと秘蔵の歌集を引っ張り出し、片っ端から弾きまくり、歌いまくった。
夫は妻の歌う詩の行間には何がこめられているか、について、情感タップリに、繰り返し私に解説した。
妻は歌の合間合間に、夫の解説の声が大き過ぎると、何度もたしなめた。
弾き語りも、詩の解説も、その声の大きさに対する小言も、全てが私を楽しませた。
気づけば、窓の外は白々と明け始めている。
ウォッカとミネラルウォーターと、ギターと歌と、漬物と残りもので、
私たちは、簡単で、安上がりで、バカバカしくも、極上の一晩を共有した。
主人が私のコップの上でウォッカのビンを逆さに振ると、やっとのことで二滴落ちた。
三人で顔を見合わせ、大笑いした。
時計を見ると、午前四時の五分前だった。
朦朧としたまま床に就き、昼過ぎに目が覚めた。
主人も主婦も、仕事に出かけた後だった。
台所はすっかり片付いて、昨夜のドンチャン騒ぎが嘘のようだ。
もしかして、夢だったの? ぼんやりとした頭を振った。
テーブルには、私の朝食が並んでいる。
その隣には、見覚えのある歌集が置かれ、
その端っこには、主婦の手でこう書き込まれていた。
「また、一緒にバカになろうね!」
(2014/12/9 20:50)
そのまた親戚宅に3週間ほどご厄介になったときのこと。
到着後、3時間以内に私のしでかしたことは、
1.風呂場の戸を閉め損ねたままシャワーを浴び、廊下を水浸しにした
2.食器を洗っている最中、手を滑らせて皿を割った
3.お手洗いの中の、トイレットペーパー保管棚の扉を壊した
であった。
これまで私は、よそのお宅に着いた途端からくつろげることを特技と自負してきた。
しかし、殆ど面識のなかった方のお宅で、しかも到着後間もなく、
これだけのことをしたとなると、どうにも落ち着かない。
即日帰るか、別のどこかに泊まるか、穴があったら入るか、のいずれかを選択したいところだった。
しかし、帰りの飛行機は3週間後、格安チケットなので、日程の変更はできない。
その地域にある宿泊施設は一軒のみ、しかも1泊数万円以上のホテル。
そして、あたりを見渡したけれど、私の入れそうな穴は見当たらない。
予定通り、そのお宅に3週間滞在することにした。
肩身の狭い思いをどうにも払拭できず、常に、
「お手伝いすることはありませんか?皿洗いでも何でもします!」
という緊張感が解けることはなかった。
皿洗いは、断られた。
生後5ヶ月の男の子の子守を買って出た。
泣けば抱いてあやし、オムツを替えた。
近所のクリニックへ定期健診にも連れて行った。
客人が来れば、茶菓子を買いに走った。
ホームパーティーの前には、家中をピカピカに磨き上げた。
家政婦のように2週間ほどを過ごしたある晩、その家の主人が私に尋ねた。
「明日、何したい?」
「何でも!皆が出掛けるなら子守をするし、特になければ換気扇の掃除でもしようかな。」
「俺の質問にちゃんと答えろよ。
お前は、『自分がどう振舞ったら、皆が丸く収まるか』ばかり考えている。
今、俺が尋ねたのは、『お前自身が何をしたいか、どうしたいか』だ。」
客人として迎えたはずの私がくつろごうともせず、勝手に家政婦になっているのが、
この家の主に対していかに失礼なことであったろう。
「私自身が何をしたいか?どうしたいか?」改めて自分の胸に尋ねた。
「明日のことはまだ分からないけど、弾き語りが聞きたい。今!」
この家の主婦はギターが得意で、そのうえ歌も上手いと評判だ。なにしろ声が良い。
しかし、鼻歌しか耳にしたことがなかった。
「よし、弾き語りを肴に、飲み明かそう!」
彼は秘密の場所からウォッカのビンを出し、栓を抜いた。
主人のコップと私のコップに、ウォッカが注がれた。
乳飲み子を抱える主婦は、ミネラルウォーターを飲んだ。
ウォッカもミネラルウォーターも、コップに注げば見た目は同じだった。
彼女はギターと秘蔵の歌集を引っ張り出し、片っ端から弾きまくり、歌いまくった。
夫は妻の歌う詩の行間には何がこめられているか、について、情感タップリに、繰り返し私に解説した。
妻は歌の合間合間に、夫の解説の声が大き過ぎると、何度もたしなめた。
弾き語りも、詩の解説も、その声の大きさに対する小言も、全てが私を楽しませた。
気づけば、窓の外は白々と明け始めている。
ウォッカとミネラルウォーターと、ギターと歌と、漬物と残りもので、
私たちは、簡単で、安上がりで、バカバカしくも、極上の一晩を共有した。
主人が私のコップの上でウォッカのビンを逆さに振ると、やっとのことで二滴落ちた。
三人で顔を見合わせ、大笑いした。
時計を見ると、午前四時の五分前だった。
朦朧としたまま床に就き、昼過ぎに目が覚めた。
主人も主婦も、仕事に出かけた後だった。
台所はすっかり片付いて、昨夜のドンチャン騒ぎが嘘のようだ。
もしかして、夢だったの? ぼんやりとした頭を振った。
テーブルには、私の朝食が並んでいる。
その隣には、見覚えのある歌集が置かれ、
その端っこには、主婦の手でこう書き込まれていた。
「また、一緒にバカになろうね!」
(2014/12/9 20:50)
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