2015年12月5日土曜日

エビを楽しむ

友人宅に滞在中の、ある晩ごはん。

テーブルの上には、巨大な皿が現れた。
その皿には、丸ごと蒸されたエビが山と盛られている。
この蒸しエビ、6歳と3歳になる彼の息子たちの大好物である。
パパとママはエビの殻をむいては愛しい息子たちの取り皿にのせる。
自分の食事もままならぬほどの忙しさだ。

・・・おや?
「おや」、そう、親だけにパパとママとをよくよく見れば、
思いのほか、彼らの手と同じくらいに、口も忙しく働いているではないか。
殻をむきながら、エビから滴る汁を「チュッ、チュッ」と吸うのである。

考えてみればこのエビ汁こそが、美味しいところを一手に引き受けている。
つまり、敢えて誤解を恐れず断言するならば、
蒸しエビは、身を食べるよりも、汁を吸う方がずっと贅沢なのだ。
そして、この最高の贅沢を享受するための資格は、「エビの殻をむく」という作業をする者にのみ与えられる。

こんなノーベル賞級の大発見をした時のことだった。

パパは殻付きのままのエビを長男に手渡した。
同時に自らも1尾を手に取り、ゆっくりと殻をむき始めた彼は、
「エビの殻をむく」という、最高の贅沢を享受するために必須の作業を自らの手で示しながら、
息子に真似をするよう促した。
一つ一つの段階において、
「エビのお腹に親指を入れるようにして」
「もいだ頭には、美味しいジュースが入っているよ。こうやって吸ってごらん」
「ほら、右手首に汁が回ってるぞ」などと、丁寧に説明している。

長男の目は俄然輝き出した。
既にお風呂を済ませたはずの彼は、口の周りも、鼻も、あごも、指の股も、肘までもが、エビ汁でベタベタになった。
彼が初めて自ら殻をむいたエビを食べるまでの間に、大人ならば軽く5尾は進んでいただろう。
しかし、もうそんなことはどうでも良かった。
次のエビを食べるためにも、その次も、彼は大人の力を借りようとはしなかった。

「ああ、明日のごはんもエビだったらいいのに!」
着替えたばかりとは信じ難いほど汚れたパジャマ姿の彼は、顔を紅潮させながら言った。

パパは私の耳元で囁いた。
「彼はこれまで、『エビを食べる』ことしか経験しなかった。
それが今晩、『エビを楽しむ』ことを知ったんだ。
いま彼の脳内で、『エビ』と『幸せ』とがシナプス結合しているのが、僕には見えるよ」

生きるために、食べることは絶対的に必要である。
しかし人生とは、決して食べるためだけに生きるものではない。
彼は息子たちに「人生を共に楽しもう」と日々働きかけているのだ。


台所で食器を洗っていると、子どもたちには聞こえないように小さな声でママが言った。
「同じメニューが続いちゃうけど、明日のお昼もエビで良い?」
私は大きく頷いた。
『エビを楽しむ』あの子の姿を見るだけでも、他には代え難い価値があるから。
それに、私だってあの子と一緒に、彼女の作る美味しいエビを楽しみたいから。

2015年10月17日土曜日

R60+からの脱却

友人知人から、こんな言葉を掛けられることがある。

「あなたって、R60+な人ね」

今さらここで説明するまでもないが、
映画にはR指定と呼ばれる観覧年齢制限の区分がある。
R15+、R18+などと表記され、それぞれ、
観覧の対象年齢が「15歳以上」あるいは「18歳以上」という意味で使われる。

こうした区分になぞらえて、
「あなたの魅力は、還暦を過ぎないことには解することができない」
といった意味合いで掛けられるのが、冒頭の言葉である。
どうやら私の魅力というのは、対象年齢にかなり高い下限があるらしい。

果たして私の魅力とは、
 一体どんなものなのか、
 どこがどうR60+なのか、
 何の因果で、UNDER60にはそれを解することができないのか、
といった具体的なところは未だ明らかにされていない。

とはいえ、どういう訳だか、こうした言葉を掛けられた経験は未成年の頃に始まり、
これまでに回数を重ねること一度や二度や三度や四度ではない。
数字が苦手なことも手伝って、正直、数えきれない。
そんなこんなが積み重なるうち、いつの間にやら自らをR60+と認めるようになって久しい。


ところが、である。
つい最近のある日のこと、である。

PC用のメガネをかけて作業する私に、ある殿方が声を掛けた。
「そのメガネ、似合うね。魅力が倍増して見えるよ」
そんな発言をした彼は、59歳と10箇月であった。

さらに、である。
これまたつい最近のある日のこと、である。

仕事場に到着した私に、ある殿方が声を掛けた。
「今日の服、イイね。エレガントな感じがして、魅力的だよ」
そんな発言をした彼は、59歳と8箇月であった。

驚くべきことに、UNDER60の殿方から、立て続けに魅力を讃える言葉を掛けられたのである。
しかも上記2例のみに関して言うならば、僅かながら低年齢化している。

そんな訳で、
このところ私は、R60+からの脱却を密かに期待している。

2015年6月21日日曜日

のびやかな あなたの文字を 覚えてる

昔々のアルバイト先にお邪魔していたら、かかりつけの税理士先生がやってきた。
かつて二、三度かお目に掛かった程度だが、あの頃とちっとも変わらない。
彼女は私の顔を見て、知り合いだろうか、それとも初対面だろうか、と少しばかり戸惑っているようだった。
「こんにちは。十数年前にこちらでお世話になっていました○○です」
私の申し出をもとに過去の記憶を辿り、一瞬にしてその中にこの顔を見つけた彼女は、明るく微笑みながら言った。

「のびやかな あなたの文字を 覚えてる」

今度は私が戸惑った。
私の書く文字はお世辞にものびやかとは言えない、これが自己評価である。
何しろ文字が、紙の中、あるいは罫線と罫線の間に収まりきらないのが常である。
つまり、やたらと大きい。
高々、「○時○分、○○様からお電話ありました」とメモ書きをする、たったそれだけのために、A5サイズ程度の用紙を必要とするのだ。
このため、何かを書くときには、用紙の中、そして罫線と罫線の間に何とかして文字を収めようと悪あがきをする。
お蔭さまで、書きあがった書類なり手紙なりは、用紙や記入欄の中で文字と文字とがお互いに押し合いへし合いして、たいそう窮屈そうなのだ。

こんな私の文字を「のびやか」と形容され、人違いかしら、と戸惑ったのだ。
すると彼女が付け加えた。
「ほら、宛名、時々書いてくれたじゃない?」

確かに、経理部長が書類か何かを郵送するとき、封筒に宛名を書くよう頼まれることはよくあった。
当時の事務所には筆が常備されていて、封筒の宛名は基本的に筆書きであった。
如何に文字が大きいと言っても、角2封筒に小筆で宛名を書く程度であれば、
押しくらまんじゅうしなくても、大抵の場合全ての文字はそこに収まってくれた。
そのうえ、ペン先の衝撃がそのまま響いてくるボールペンとは異なり、
筆で書くときの手応えは、クッションを噛ませたように柔らかく心地よい。
お蔭で、角2封筒に宛名を書くのだけは気分が良く、大好きだった。
こんなこと、すっかり忘れていたけれど、思いもかけず記憶の糸が繫がり、合点がいった。

私の表情からそれを読み取った彼女は、更に付け加えた。

「あなたの書いた封筒は まるで大空駆け巡り
 名もない けれど美しい 世界の景色を楽しんで
 最後にここに来てくれた そんな気持ちにしてくれる」

歌うような彼女の言葉に、
これまで宛名を書いた封筒達が、一斉に真っ青な空へ舞い上がった。
窓から、そんな景色が見えた気がした。

2015年6月10日水曜日

女心を読む男

ひょんなことから、昔々お世話になったアルバイト先の社長から呼び出された。
どう言う訳だか、事務所でお昼をご馳走していただくことになった。
メニューは、
 ・ 五目飯のおいなりさん
 ・ 芋がらの味噌汁
 ・ 野菜と厚揚げの煮もの
である。
いずれも、私の好物中の好物である。
しかも、働き者の主婦の手作りである。
美味しいのなんのって、それはそれは涙が溢れんばかりである。

ひとしきり夢中で食らいついた後、気付くと、目の前にはおいなりさんが一つだけ残っていた。
いわゆる、「遠慮の塊」である。
社長も私も、この時点で3個ずつ平らげている。つまり、おあいこである。
二人の間に置かれたこの遠慮の塊は誰の胃袋に入るべきか、容易には測り兼ねた。

えーっと、えーっと・・・
ためらいがちな乙女心を抱きつつも、私は思い切って尋ねた。
「おいなりさん、召し上がりますか?」

すると社長は、いつもの紳士的な態度を崩すことなく言った。
「その『召し上がりますか?』は、『召し上がらないでください』という意味ですね?」


「女の言葉は本音と裏腹」なんて言われるように、
男性にとって、女心を読み取ることは大分難しいことらしい。
しかしこの日、男性である社長はいとも簡単に、しかも瞬間的に、女心を読み解いて見せた。

結局、遠慮の塊は私のもとにやってきた。
メルシー、社長。
メルシー、女心を読む男。