2011年8月12日金曜日

跳ねる魚

毎年、夏休みに滞在している知人宅がある。
そこでは毎朝、1時間ほどの海水浴をする。
朝は未だ海水浴客で混雑していないし、日差しも強くない。
水も冷たくて、気持ちが良い。
ママと私が海水浴をしている間、パパは「釣り人たちの様子を見ている」らしい。
少なくとも、本人はそう言っている。
しかし実際は、釣竿もエサも持って行くので、釣り糸を垂れているはずである。
大抵は、そこらに打ち捨てられたバケツやビニール袋に獲物を入れて戻ってくる。

ある朝、小さな魚を一匹だけ収穫したものの、入れ物が見つからなかったらしい。
見つかったのは、トマト用の空ダンボール箱だけ。
帰りの車には、いつもの通り、運転席にパパ、助手席にママが座った。
水気も蓋もない段ボール箱に寝かされた魚が運転席の後ろに席を取り、その隣に私が座った。

「さあ、お魚と一緒にドライブだ!」
パパとママは元気に言った。

しかし、当の魚はドライブなんてするつもりはない。
そもそも、水のないところに大人しく寝かされているはずがない。
当然のことながら、跳ねる。
跳ねても水がない。
すると更に、跳ねる。
水を求めて、何度でも、跳ねる。

隣に座っている私は怖くて仕方がない。
「せめて何か蓋になるものはないか?怖い」という私に、
「体の大きさを考えろ。怖がるのは向こうの方だ。そんなものは手で押さえろ」
前に座った二人の言葉はごもっともだが、そうは言っても、やはり怖い。
魚が跳ねては悲鳴を上げ、
魚がじっとしている間は、「今、跳ねるか、今に跳ねるぞ」とビクビクしていた。

帰宅するまでの15分間のドライブで、魚は力の限り跳ね続けた。
うち3回は、天井に届くほど高くジャンプし、トマトの箱には収まらず、私の足元に落ちた。
そのたび、なおさら高くなる私の悲鳴に音をあげたパパは、車を止め、トマトの箱に魚を戻した。

「悲鳴を上げるほど熱愛する相手を、あなたに食べさせてあげるわ」と、
ママは、晩ごはんには私だけ一品多く、魚フライをつけてくれた。
美味しかった。
「ほら、あんなに大騒ぎしたって、結局は食べちゃうんだから」ママは呆れて言った。


フライにしてもらえば食べてしまうのに、跳ねる魚は何故あんなにも怖いのだろう。
パパやママの言葉通り、体の大きさから見ても、怖いはずがないのに。

この場合の「怖い」は、「恐怖」ではなく、「畏怖」に近いように思う。
跳ねる魚は、『今』自分に必要な水を求めて、とにかく『今』できる限りのことを実行している。
あとさきなんて、お構いなしだ。
成功も失敗も、その確率も、お構いなしだ。
周りからどう見られようと、将来どうなろうと、しがらみも、損得も、何にもお構いなしだ。
何しろ『今』自分に必要なものは水で、そのために『今』できることが跳ねることだけなら、
兎にも角にも力の限り跳ねて跳ねて、跳ね続けるのみだ。

「今を生きる」なんて表現を、現実味もなく聞き流していたけれど、
跳ねる魚は、まさにこの言葉を体現していた。
重さにしたら500倍もある私を、完全に圧倒するだけの迫力が、彼にはあった。
そんな彼に対し、私は畏怖の念を抱いたのだ。
こうして捨て身で『今』を生きる彼の人生、いや魚生に、悔いはないはずだ。
翻って、こんな風に捨て身で『今』を生きることを、私はしてきただろうか。


あの家に、今年は未だ遊びに行っていなかった。
このところ、3日にいっぺん電話が掛かってきては、
「いつ来るか?」と尋ねられていたのは、そのためだったことに気付いた。

さて、少し遅めの夏休みを取って、またあの家で1、2週間を過ごそう。
自分の生きている『今』を実感するために。
そして、その大切な『今』を、大好きなパパやママと共有するために。