そこでは毎朝、1時間ほどの海水浴をする。
朝は未だ海水浴客で混雑していないし、日差しも強くない。
水も冷たくて、気持ちが良い。
ママと私が海水浴をしている間、パパは「釣り人たちの様子を見ている」らしい。
少なくとも、本人はそう言っている。
しかし実際は、釣竿もエサも持って行くので、釣り糸を垂れているはずである。
大抵は、そこらに打ち捨てられたバケツやビニール袋に獲物を入れて戻ってくる。
ある朝、小さな魚を一匹だけ収穫したものの、入れ物が見つからなかったらしい。
見つかったのは、トマト用の空ダンボール箱だけ。
帰りの車には、いつもの通り、運転席にパパ、助手席にママが座った。
水気も蓋もない段ボール箱に寝かされた魚が運転席の後ろに席を取り、その隣に私が座った。
「さあ、お魚と一緒にドライブだ!」
パパとママは元気に言った。
しかし、当の魚はドライブなんてするつもりはない。
そもそも、水のないところに大人しく寝かされているはずがない。
当然のことながら、跳ねる。
跳ねても水がない。
すると更に、跳ねる。
水を求めて、何度でも、跳ねる。
隣に座っている私は怖くて仕方がない。
「せめて何か蓋になるものはないか?怖い」という私に、
「体の大きさを考えろ。怖がるのは向こうの方だ。そんなものは手で押さえろ」
前に座った二人の言葉はごもっともだが、そうは言っても、やはり怖い。
魚が跳ねては悲鳴を上げ、
魚がじっとしている間は、「今、跳ねるか、今に跳ねるぞ」とビクビクしていた。
帰宅するまでの15分間のドライブで、魚は力の限り跳ね続けた。
うち3回は、天井に届くほど高くジャンプし、トマトの箱には収まらず、私の足元に落ちた。
そのたび、なおさら高くなる私の悲鳴に音をあげたパパは、車を止め、トマトの箱に魚を戻した。
「悲鳴を上げるほど熱愛する相手を、あなたに食べさせてあげるわ」と、
ママは、晩ごはんには私だけ一品多く、魚フライをつけてくれた。
美味しかった。
「ほら、あんなに大騒ぎしたって、結局は食べちゃうんだから」ママは呆れて言った。
フライにしてもらえば食べてしまうのに、跳ねる魚は何故あんなにも怖いのだろう。
パパやママの言葉通り、体の大きさから見ても、怖いはずがないのに。
この場合の「怖い」は、「恐怖」ではなく、「畏怖」に近いように思う。
跳ねる魚は、『今』自分に必要な水を求めて、とにかく『今』できる限りのことを実行している。
あとさきなんて、お構いなしだ。
成功も失敗も、その確率も、お構いなしだ。
周りからどう見られようと、将来どうなろうと、しがらみも、損得も、何にもお構いなしだ。
何しろ『今』自分に必要なものは水で、そのために『今』できることが跳ねることだけなら、
兎にも角にも力の限り跳ねて跳ねて、跳ね続けるのみだ。
「今を生きる」なんて表現を、現実味もなく聞き流していたけれど、
跳ねる魚は、まさにこの言葉を体現していた。
重さにしたら500倍もある私を、完全に圧倒するだけの迫力が、彼にはあった。
そんな彼に対し、私は畏怖の念を抱いたのだ。
こうして捨て身で『今』を生きる彼の人生、いや魚生に、悔いはないはずだ。
翻って、こんな風に捨て身で『今』を生きることを、私はしてきただろうか。
あの家に、今年は未だ遊びに行っていなかった。
このところ、3日にいっぺん電話が掛かってきては、
「いつ来るか?」と尋ねられていたのは、そのためだったことに気付いた。
さて、少し遅めの夏休みを取って、またあの家で1、2週間を過ごそう。
自分の生きている『今』を実感するために。
そして、その大切な『今』を、大好きなパパやママと共有するために。