2017年9月24日日曜日

どうしようもない二人(その2)

 (その1からのつづき)

私はポケットに手を突っ込んで、一枚の紙きれを出した。
詩とも散文ともつかない、そもそも愚にもつかない文章だ。
いつだったか、ヒマに任せて、誰に見せるつもりもなく書いたらくがきが、
その朝、引出しから出てきたのだ。
それをそのままポケットに入れていたのを思い出した。

「私の書いた文章を聞いてもらえませんか?」
 
彼女は目を輝かせ、「もちろんよ」と答えた。

私が読み始めると、彼女は自分の耳を私の口に近づける。
私と息を合わせ、私の読むのと調子を合わせて、「うん、うん」とうなずく。
文の切れ目、ちょっと間が空くと、こちらを見て「え?」と言う。
私が続ければ、彼女はまた耳を近づける。

二人で息を合わせ、調子を合わせて……、を繰り返すうち、
子どものころ「おじょうさん、おはいんなさい」と、
二人で一つの縄跳びをした感覚がよみがえった。

らくがきが終わり、「おじょうさん、おはいんなさい」も終わった。
彼女は「うん、うん」を止め、こちらを見て「おしまい?」と尋ねた。
「はい、おしまいです。」
「そう……。どうしようもないね!」

「どうしようもないね!」それは、元気だった頃の彼女の口癖だった。

気丈で、機転が利いて、ユーモアがあって、行動力満点だった彼女が、まさか認知症を患うなんて、誰が想像しただろう。
でもこればっかりは、どうしようもない。

住み慣れた場所で暮らし続けたかった彼女が、今はここで暮らしている。
これだって、どうしようもない。

私が彼女に聞かせたらくがきは、とても正直で、かつ、愚にもつかないものだった。声に出して読み返してみて、それが改めて良く分かった。
これだって、どうしようもない。

そして私の中には、意固地の虫が住んでいる。こいつが時々頭をもたげては、見栄やら意地やらを張る。そうすると私は、自分を窮屈な穴ぐらに押込めて、自らの自由を奪ってしまう。
これもあれも、どれもそれも、みんなどうしようもないことだらけだ。

どうしようもない二人が、「おじょうさん、おはいんなさい」をして、
どうしようもない時間を過ごしていた。

そこに、彼女の口癖は、昔々聞き慣れたままの調子で、あっけらかんと明るく響いた。
それはまるで、「どうしようもなくていいよ」と、天から注ぐ日差しのようだった。

2017年9月23日土曜日

どうしようもない二人(その1)

かつて昔のアルバイト先でさんざんお世話になった経理部長(*)に会いに行った。

「最近は認知症が進んでね。ひとり暮らしを続けさせるのは、もう無理。
耳は随分前から遠かったけど、今はもう殆ど聞こえてないんじゃないかな。」
息子さんがそう言って、今の場所に移った、否、移したのが数年前のことだ。

前回会ってから数えたって、一年も経つんだもの。
お互い元気で、ひとときを共に過ごせるなら、それで充分。
そう思いながら、
昔々、彼女から贈られたペンダントを着けて、
昔々、彼女が愛用していたのと同じ筆ペンを持って、
昔々、彼女が長年関わっていたシリーズ本の古い古いバックナンバーを一冊持って、
電車やバスに長いこと揺られて、会いに行った。

ペンダントに彼女の視線が落されることはなかった。
筆ペンを見せると、「置いといて」といった様子で小さな棚を指差された。
古い古いバックナンバーには、彼女の手が自然に伸びた。
メガネを掛けたり外したりしながら、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわしている。
見終わったのかな、と思って、話しかけようとすると、
今度は反対側から、同じように時間を掛けて、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわす。
そうやって、あっちから、こっちから……と、彼女は脇目も振らず5往復した。

きっと何か感じている。強く感じている。

「会話なんて成立しないよ。僕が顔見せたって分からないんだから。」
息子さんはそう言っていたけれど、
ほら、見てよ。
彼女の脳みそや体中の神経細胞、それに筋肉やら何やらが、
みんなして互いにペチャクチャとオシャベリを始めてるじゃない。

「会話が成立しないなんてことない。今ならできる。絶対できる。
何としても今、この私が会話を成立させる。」
私の中に住む意固地の虫が頭をもたげた。

彼女の目に入ったであろうことについて、私はいくつか言葉を掛けた。
文節ごとに区切って、ゆっくり、ハッキリ、大きな声で話す私の言葉が、
どのくらい聞き取れたのだろうか。
彼女はまるで初対面の相手の自己紹介を聞くように、
どこかしら気を遣いながら穏やかな笑顔をたたえ、好奇心旺盛な眼差しをじっとこちらに向ける。

私は意固地の虫の焦りに任せて、
彼女にとって懐かしいであろうあれこれについて、話題を振ろうと試みた。
意固地の虫が求めるままに、私は、あがいて、もがいて、這ってでも進もうとした。
会話が噛み合うどころか、彼女から言葉が発されることさえなかった。

私の中の意固地の虫は、はかなくもあっけなく、鼻っぱしをへし折られた。

                       (その2へつづく)