「最近は認知症が進んでね。ひとり暮らしを続けさせるのは、もう無理。
耳は随分前から遠かったけど、今はもう殆ど聞こえてないんじゃないかな。」
息子さんがそう言って、今の場所に移った、否、移したのが数年前のことだ。
前回会ってから数えたって、一年も経つんだもの。
お互い元気で、ひとときを共に過ごせるなら、それで充分。
そう思いながら、
昔々、彼女から贈られたペンダントを着けて、
昔々、彼女が愛用していたのと同じ筆ペンを持って、
昔々、彼女が長年関わっていたシリーズ本の古い古いバックナンバーを一冊持って、
電車やバスに長いこと揺られて、会いに行った。
ペンダントに彼女の視線が落されることはなかった。
筆ペンを見せると、「置いといて」といった様子で小さな棚を指差された。
古い古いバックナンバーには、彼女の手が自然に伸びた。
メガネを掛けたり外したりしながら、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわしている。
見終わったのかな、と思って、話しかけようとすると、
今度は反対側から、同じように時間を掛けて、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわす。
そうやって、あっちから、こっちから……と、彼女は脇目も振らず5往復した。
きっと何か感じている。強く感じている。
「会話なんて成立しないよ。僕が顔見せたって分からないんだから。」
息子さんはそう言っていたけれど、
ほら、見てよ。
彼女の脳みそや体中の神経細胞、それに筋肉やら何やらが、
みんなして互いにペチャクチャとオシャベリを始めてるじゃない。
「会話が成立しないなんてことない。今ならできる。絶対できる。
何としても今、この私が会話を成立させる。」
私の中に住む意固地の虫が頭をもたげた。
文節ごとに区切って、ゆっくり、ハッキリ、大きな声で話す私の言葉が、
どのくらい聞き取れたのだろうか。
彼女はまるで初対面の相手の自己紹介を聞くように、
どこかしら気を遣いながら穏やかな笑顔をたたえ、好奇心旺盛な眼差しをじっとこちらに向ける。
私は意固地の虫の焦りに任せて、
彼女にとって懐かしいであろうあれこれについて、話題を振ろうと試みた。
意固地の虫が求めるままに、私は、あがいて、もがいて、這ってでも進もうとした。
会話が噛み合うどころか、彼女から言葉が発されることさえなかった。
私の中の意固地の虫は、はかなくもあっけなく、鼻っぱしをへし折られた。
(その2へつづく)