何年前になるだろうか、こんなことがあった。
一緒に食事をしていた上司が一言、
「僕の小指の爪の形、良いでしょ?」
正直、おったまげた。
何におったまげたか、というと、
見た目には特別華やかでもない、日本人の、ちょっとお腹の出っ張った、
極々フツーのオジサマが、
自分のチャームポイントを明確に認識していること、
そして、それをアッケラカンと口に出せることに、である。
注目してみると、上司の示す小指の爪の形は、確かになかなかのものだった。
手全体を見れば、お世辞にも「手タレのよう」とは言えないし、他の指の爪は横長だし、
小指の爪全体を見れば、加齢による縦ジワもあるけれど、
『小指の爪の形』を見ると、これがなかなか良い。
ネイルサロンで整えてもらったばかりの私の爪の形と比較しても、引けをとらない。
彼は、自分自身を愛しみ、観察し、認めている。
良いところも、そうでないところも、目を逸らすことなく、受け容れているのだろう。
当時の私には、それが出来なかった。
自分のダメなところから目を逸らしたいばっかりに、
良いところも、あるいは、どうでもいいところも、何もかも、
何しろ私というものから、必死になって目を逸らそうとしていた。
「自分自身を受け容れるなんて、限られた、特別な人にだけ許されたことだ」と言い訳して、
どこかへ逃げてしまいたかった。
しかし、上司は、
見た目には特別華やかでもない、日本人の、ちょっとお腹の出っ張った、
極々フツーのオジサマである上司は、
限られた、特別な人という感じの全くない、その上司は、
気負った様子もなく、当たり前のこととして、
自身の良いところも、恐らくそうでないところも、全体として、受け容れているようだ。
自分自身という存在を丸ごと受け容れること、
それは決して「限られた、特別な人にだけ許されたこと」なんかではなく、
特別華やかでなくても、胴長短足の日本人でも、ちょっとお腹が出っ張っていても、
老若男女、誰しもが、
極々フツーに、当たり前のこととして、やって構わないことなんだ。
いや、むしろ、すべきことなんだ!
と、おったまげた日のことを、ふと思い出した。
かの上司にとっての小指の爪の形は、私にとっての何だろう。
次の休暇では、のんびり温泉にでも入りながら、自分のチャームポイントを探してみよう。