2017年12月30日土曜日

自分を鏡で見るメガネ

幼少期より目の良かった私が、初めてメガネを買ったのは、数年前のことだった。
「ブルーライトカット」
この言葉を聞いた瞬間、私の心に電気が走った。
液晶画面の発する悪玉ブルーライトから、か弱いこの私を、
このメガネがスーパーマンのように守ってくれるのだ。
それからというもの、PC作業時には、このメガネをかけている。

するとどうだろう。
「そのメガネ、似合うね。」
「魅力が倍増して見えるよ。」
メガネをかけた私は、やたらと評判が良い。
「PC作業以外の時も、ずっと掛けてたらいいのに。」
という輩まで現れた。

度が入っているわけではないので、見え方に違いはないけれど、
見られ方にはどうやら違いがあるようだ。

気を良くした私は、メガネを掛けたまま鏡に向かった。
似合うのか、似合わないのか、
魅力が1倍か、2倍か、はたまた3割引か、
いま一つピンと来ない。

しかし待てよ。
メガネをかけていると、そちらに目が行く。
すると目元の小じわも、くすみも、クマも気にならない。
な~んだ。最高にゴキゲンじゃん、このメガネ。
それからというもの、自分を鏡で見る時には、このメガネをかけている。

数年間もそれを続けているうちに、
鏡に向かう前、「おっとっと、メガネ忘れた」と取りに行くようになった。
メガネをかけずに鏡を見ると、
何だか自分がとてつもなくカッコ悪いような、
こんなの自分と認めたくないような、そんな気がしてきた。
だって、目元の小じわも、くすみも、クマも、そのままに見えちゃうんだもん。


さて、この「自分を鏡で見るメガネ」、実は昔々からかけているように思えてきた。
しかも、鼻の上でも、目の前でもなくて、心に。

意固地になってみたり、カッとしてみたり、臆病になってみたり……、
そんな私が、確かにいることを時々感じる。
同時に、そんな自分を認めたくない気持ちもある。
認めたくない自分を恐れ、頑なに拒む気持ちも、確かに感じる。
「私は意地っ張りでも、おこりんぼでも、臆病者でもないもん!」

「そのままの自分」の中には、自分で気付いている自分も、認めている自分もある。
同時に、自分では気付いていない自分も、認めたくない自分も、間違いなく存在する。
そしてそれはどれも、たぶん他人から見たら、いかにも私らしい姿なのだろう。
ところが何の因果か、私は「そのままの自分」を恐れ、拒む癖を付けた。
悪玉の恐ろしい「そのままの自分」から、か弱いこの私を守ってくれる
スーパーマンのようなメガネを渇望し、果ては作り上げたのではないだろうか。
かくして、「自分を鏡で見るメガネ」を心にかけ始めたのだろう。

心にかけっぱなして久しい、この「自分を鏡で見るメガネ」、
果たして、外すことはできるものなのだろうか。
もし仮に、外すことができたとしたら、
私にとって、「そのままの自分」は、どう映るのだろう?

2017年11月26日日曜日

省略された主語

実家近くの治療院に顔を出すと、先生が開口一番こう言った。
「もう帰ったの?」
「はい。実家に寄って、母のごはんを食べてから来ました。」
「……あ、いやいや、えっと…」

口ごもる先生を見て、察しがついた。
一週間ほど前から出張している我が兄弟について尋ねているのだった。

「今晩成田に着いて、家に帰るのはだいぶ遅くなるらしいです。」
「そうか、じゃあ間に合わないね。」
「うん、残念だけど、私はお土産貰わないうちにアパートに戻ります。」
「!」

鳩が豆鉄砲を食ったような先生を見ても、今度は全く何も思い当たらない。
しばし互いに見つめ合ったのち、
先生は意を決したように言った。

「その、僕はね、
『出張中の疲れを今日中にケアしてあげられるかな』って思ったんだ。」

2017年10月31日火曜日

目下の悩み

長年の夢がかなって、味噌を手作りした。

ウン十年ぶりに再会した伯母が毎年味噌づくりをしてきたことが分かり、
今年の初め、仕込みを教えてもらいに行ったのだ。

梅雨が明けた頃になると、伯母からメールがあった。
「さあ、良いにおいをさせて、蓋が開くのを待っているわよ。」

まずは、実家の母にプレゼントした。
それから、親戚、同僚、友人、ご近所さん……と、
お裾分けをしている。

『手前味噌』とはよく言ったもので、
「美味しかったわ。」と褒めてもらうたび、
「やっぱりウチの子、美人でしょう?」とばかりに、すっかり得意になっている。

ところが先日、大変なことに気付いた。
私の大切な手前味噌が、もうすぐなくなりそうなのだ。
しかも未だ、当の私は味見しかしていない。

件の伯母に伝えると、「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。」
カラカラと笑う晴れやかな声が返ってきた。

残り少ない初めての手前味噌を、
もちろん自分で存分に味わって楽しみたいものだ。
しかし同時に、人にチョッカイを出すというのも捨てがたい楽しみで、
お裾分けの相手は、「あの人も、この人も……」と尽きそうにない。

どちらの楽しみを取るべきか。
目下、僅かに残った味噌の前で、腕組みをして悩んでいる。

2017年9月24日日曜日

どうしようもない二人(その2)

 (その1からのつづき)

私はポケットに手を突っ込んで、一枚の紙きれを出した。
詩とも散文ともつかない、そもそも愚にもつかない文章だ。
いつだったか、ヒマに任せて、誰に見せるつもりもなく書いたらくがきが、
その朝、引出しから出てきたのだ。
それをそのままポケットに入れていたのを思い出した。

「私の書いた文章を聞いてもらえませんか?」
 
彼女は目を輝かせ、「もちろんよ」と答えた。

私が読み始めると、彼女は自分の耳を私の口に近づける。
私と息を合わせ、私の読むのと調子を合わせて、「うん、うん」とうなずく。
文の切れ目、ちょっと間が空くと、こちらを見て「え?」と言う。
私が続ければ、彼女はまた耳を近づける。

二人で息を合わせ、調子を合わせて……、を繰り返すうち、
子どものころ「おじょうさん、おはいんなさい」と、
二人で一つの縄跳びをした感覚がよみがえった。

らくがきが終わり、「おじょうさん、おはいんなさい」も終わった。
彼女は「うん、うん」を止め、こちらを見て「おしまい?」と尋ねた。
「はい、おしまいです。」
「そう……。どうしようもないね!」

「どうしようもないね!」それは、元気だった頃の彼女の口癖だった。

気丈で、機転が利いて、ユーモアがあって、行動力満点だった彼女が、まさか認知症を患うなんて、誰が想像しただろう。
でもこればっかりは、どうしようもない。

住み慣れた場所で暮らし続けたかった彼女が、今はここで暮らしている。
これだって、どうしようもない。

私が彼女に聞かせたらくがきは、とても正直で、かつ、愚にもつかないものだった。声に出して読み返してみて、それが改めて良く分かった。
これだって、どうしようもない。

そして私の中には、意固地の虫が住んでいる。こいつが時々頭をもたげては、見栄やら意地やらを張る。そうすると私は、自分を窮屈な穴ぐらに押込めて、自らの自由を奪ってしまう。
これもあれも、どれもそれも、みんなどうしようもないことだらけだ。

どうしようもない二人が、「おじょうさん、おはいんなさい」をして、
どうしようもない時間を過ごしていた。

そこに、彼女の口癖は、昔々聞き慣れたままの調子で、あっけらかんと明るく響いた。
それはまるで、「どうしようもなくていいよ」と、天から注ぐ日差しのようだった。

2017年9月23日土曜日

どうしようもない二人(その1)

かつて昔のアルバイト先でさんざんお世話になった経理部長(*)に会いに行った。

「最近は認知症が進んでね。ひとり暮らしを続けさせるのは、もう無理。
耳は随分前から遠かったけど、今はもう殆ど聞こえてないんじゃないかな。」
息子さんがそう言って、今の場所に移った、否、移したのが数年前のことだ。

前回会ってから数えたって、一年も経つんだもの。
お互い元気で、ひとときを共に過ごせるなら、それで充分。
そう思いながら、
昔々、彼女から贈られたペンダントを着けて、
昔々、彼女が愛用していたのと同じ筆ペンを持って、
昔々、彼女が長年関わっていたシリーズ本の古い古いバックナンバーを一冊持って、
電車やバスに長いこと揺られて、会いに行った。

ペンダントに彼女の視線が落されることはなかった。
筆ペンを見せると、「置いといて」といった様子で小さな棚を指差された。
古い古いバックナンバーには、彼女の手が自然に伸びた。
メガネを掛けたり外したりしながら、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわしている。
見終わったのかな、と思って、話しかけようとすると、
今度は反対側から、同じように時間を掛けて、端から端まで一枚ずつページをめくり、丁寧に眺めまわす。
そうやって、あっちから、こっちから……と、彼女は脇目も振らず5往復した。

きっと何か感じている。強く感じている。

「会話なんて成立しないよ。僕が顔見せたって分からないんだから。」
息子さんはそう言っていたけれど、
ほら、見てよ。
彼女の脳みそや体中の神経細胞、それに筋肉やら何やらが、
みんなして互いにペチャクチャとオシャベリを始めてるじゃない。

「会話が成立しないなんてことない。今ならできる。絶対できる。
何としても今、この私が会話を成立させる。」
私の中に住む意固地の虫が頭をもたげた。

彼女の目に入ったであろうことについて、私はいくつか言葉を掛けた。
文節ごとに区切って、ゆっくり、ハッキリ、大きな声で話す私の言葉が、
どのくらい聞き取れたのだろうか。
彼女はまるで初対面の相手の自己紹介を聞くように、
どこかしら気を遣いながら穏やかな笑顔をたたえ、好奇心旺盛な眼差しをじっとこちらに向ける。

私は意固地の虫の焦りに任せて、
彼女にとって懐かしいであろうあれこれについて、話題を振ろうと試みた。
意固地の虫が求めるままに、私は、あがいて、もがいて、這ってでも進もうとした。
会話が噛み合うどころか、彼女から言葉が発されることさえなかった。

私の中の意固地の虫は、はかなくもあっけなく、鼻っぱしをへし折られた。

                       (その2へつづく)

2017年8月11日金曜日

捨てる鉢あれば

前出の「彼」が瑞々しい羽を広げ、新たな門出をした。
そして私は、再びひとり暮らしに戻った。

否、「戻った」という言葉はしっくりこない。
かつて、ひとり暮らししか知らなかった頃のひとり暮らしと、
一旦「彼」との暮らしを味わってしまった後のひとり暮らしとでは、
土台としての期待値が大きく異なるのだ。

かつての私にとっての帰宅とは、
何もかもを自分の思い通りにできる自分の城に入り、存分に休むことであった。

一方、「彼」と暮らした私にとっての帰宅とは、
何もかもが私と異なる「彼」の、想定外の行動や変化に翻弄されることとなった。
「最近食欲が旺盛だから、食べる物が足りないんじゃないか?」
「今日は暑かったから、熱中症で倒れているんじゃないか?」
「私を捨てて家出していないか?」
そんな私の心配をよそに、彼は飢えることも倒れることも家出することもなく、
私の予想とは別の順序で葉っぱを食べ、徐々に大きくなり、
私の予想とは異なるタイミングで色を変え、形を変え、
私の予想をはるかに超えるたくさんのウンチを残して、そして羽ばたいていった。
私は帰宅するたび、想定外の彼の行動や変化に驚いた。
「想定外のことに翻弄される喜び」を知ってしまったのだ。

想定外のことに翻弄されるつもりで、喜びを味わうつもりで、帰宅して眺めてみると、
何もかもが自分の思い通りの自分の城というのは、
どうにもこうにも味気ない。

誰もいない鉢植えを眺めていると、自ずと「彼」のことが思い出される。
あれだけたくさんウンチをしたくせに、
黒から緑に色を変えたくせに、
芋虫から蛹に形を変えたくせに、
蛹から蝶になったくせに、
どれもその決定的瞬間だけは見せてくれなかった。
なにさ、ケチ。
誰もいない鉢植えを眺める私は、すっかり捨て鉢になった。

あれ?
何か小さな黒っぽいものが葉っぱの上にあるぞ。
ウンチが下に落ちずに、こんなところに留まっているなんてこと、あるのかしら。

よく見ると、小さな小さな芋虫だ。
よくよく見ると、こっちにもう一匹。
あれれ?
ここにも、そこにも、あそこにも……。
ひとつ、ふたつ、と数えてみると、8匹の芋虫がいるではないか。

私に「彼」という喜びをもたらしたのは、そもそもこの鉢植えだ。
その同じ鉢植えを眺めて、私は捨て鉢になっていた。
そして、捨て鉢だった私に、この鉢植えがまた、喜びをもたらしてくれそうだ。

2017年7月15日土曜日

無口な彼

「どう、おいしい?」
このところ毎晩、帰宅すると彼にこう尋ねていた。

愛しい誰かさんが待っていてくれる。
そのうえ、私の供した食事を、むさぼるように食べてくれる。
他には代えがたい幸せだ。
ひとり暮らしが長かったせいか、つくづく身に染みる。

彼は、無口である。
返事をしてくれているのだろうか。声を聞いたことは、ない。
時々食べるのを休んで、微笑むような顔つきで遠くを見る。
そんなとき、「返事は言葉でなくてもいい、気持ちは通じるもの」という気がする。

とにかく、彼と一緒に暮らすようになってからのここ何週間か、
家に帰るのが楽しくて仕方ない。
窓を開け放して、ベランダに腰掛けて、夕涼みがてら、
食事する彼の姿を、見るともなく見ている。
そんな時間が最高だ。

その彼が、一昨日の晩から、一切何も食べなくなった。
そのうえ、微動だにしない。
更には、顔つきまで変わって見える。
否、顔立ち、というか、体型も、色も、何もかもが変わり、
ただただジッとしている。

「どうしたの?食欲ない?」
と尋ねても、いつものとおり返事はない。
ベランダに目を落すと、彼のウンチが一面に散らばっている。
食事する彼の姿ばかりに目を奪われて、
彼のウンチは全く目に入っていなかったのだ。


しばらく前、我が城にアゲハチョウが来たらしい。
鉢植えの葉の上に、黒っぽい小さな芋虫を見つけた。
私はその芋虫に「彼」と名付けた。
彼の食欲は日増しに旺盛になり、
体はあっという間に緑色に、そしてみるみる大きくなった。

そんな彼に、「次は、こっちの葉っぱにしたら?柔らかそうだよ。」なんて
話しかけては、彼の返事を想像して楽しんでいた。

彼が蛹になった日から数えると、羽化するのは来週末あたりだろうか。
そしたら盃をあけて、彼の新たな門出をお祝いしよう。

さて、まずは、この大量のウンチの掃除でもするか。

無口な彼が、アゲハチョウになって最初に見る世界が、
こざっぱりとしたものであるように。
そして、ひとり暮らしに戻った私が、羽ばたく彼にあやかれるように。

2017年6月24日土曜日

もっとしょっちゅう来るように

第二の家族のもとに到着すると、そこは別世界だった。
……というほどではないけれど、
引っ越したばかりの彼らの住まいは、地域も異なれば、間取りも異なった。

ママが家中を案内してくれた。
「ここがトイレ、こっちがお風呂、台所が結構広いから、このテーブルで食事するの。
ここがパパとママの部屋、それから……」

「あとは弟くんの部屋と、私が泊まる部屋、のはず。」
そう思ったところで、弟くんが現れた。

「ほら、あとはこんな部屋と、あと納屋」

『こんな部屋』は、綺麗に片付けられ、どうやら弟くんの部屋らしい。
『納屋』には、足の踏み場もないほどに、段ボール箱が積み上げられている。
引っ越したばかりの割に片付いて見えたのは、この納屋のお蔭だったのだ。

弟くんは、私の心中に生じた疑問を、そのまま口に出した。
「どっちの部屋で寝る?こっちで寝てみる?」
しかし意外にも彼が指差したのは、『納屋』だった。

一瞬ひるんだものの、私は答えた。
「よし、覚悟決めた。」
これまで私が『帰省』した時はいつでも、彼が自分の部屋を気持ちよく明け渡し、
大きな体を小さな簡易ベッドに押込めてきたのだ。
私だって、一度くらいは頑張ってみよう。

弟くんはニヤリと笑い、「ママと相談して。」とだけ言って出掛けた。

結局その晩、私は弟くんの部屋に泊めてもらった。
早朝、廊下を挟んで向かいの納屋に、人の気配はなかった。
「私が泊まることで、弟くんを追い出しているのではないだろうか。
もしかして私は迷惑なんじゃないか。」
そんな、何だか申し訳ない気持ちがよぎった。

朝ごはんを食べながら、弟くんに尋ねた。
「昨夜はどこに泊まったの?」
彼は、大金持ちの友人宅の『余ってる部屋』に泊めてもらっているらしい。

短い滞在の最後の晩、家族そろってシャンパンを開けた。
グラスを上げてパパが乾杯をした。「仕事が上手くいくように!」
今度はママがグラスを上げた。「みんなが元気でいられるように!」
滅多に乾杯の言葉を述べない弟くんがグラスを上げた。
「もっとしょっちゅう来るように!」そう言うと、彼は私に目配せをした。
パパとママとが唱和した。
「もっとしょっちゅう来るように!」

私もグラスを上げ、いっぺんに飲み干した。
柔らかな泡の中に、小さくひとつ、喉にチクリと感じた。
きっと、「私は迷惑なんじゃないか」なんて心配が、
シャンパンの泡と一緒に流れて行ったんだ。そんな気がした。

2017年5月14日日曜日

山また山を見ず

ゴールデンウィークの直前、ママから電話があった。
「連休には帰ってらっしゃいよ」

私には第二の家族がある。
血の繋がりも何も無い相手だが、もう20年以上のお付き合いになる。
盆だ正月だと言っては、毎年のように『帰省』していたけれど、
ここ2年ほどだろうか、互いのどちらかの都合がつかずに、ご無沙汰していた。

そしてその『ママ』から、『帰ってこい』と電話があったのだ。

電話口のママは続けた。
「何よ。暦通りにしか休めないの?
 短いわね。中三日じゃない。
 それに連休にピッタリ合わせたら、交通費も高いわよ。
 まあいいわ。
 とにかく、今すぐ切符を予約しなさい。
 大事なのは日数でも費用でもない。
 私たちが実際に会うってことなんだから。」

大事なのは、私たちが実際に会うってこと

何十年も前に読んだ、否、読み聞かせてもらった文が頭に浮かんだ。
「山また山を見ず。人また人を見る。」

どこかの国のどこかの地域の、ことわざか何からしい。
山は、他の山に会いたいと思っても、お互い動けないから、会いに行くことはできない。
でも人は、誰かに会いたいなら、お互い生きてさえいたら、会いに行くことができる。
そんな意味合いと説明されていた。

電話を切ると、すぐさま交通手段を探した。
切符が高くても、駅や空港が混雑していても、まあいいか。

だって、
会いたい相手がいるんだもの。
そのうえ、せっかく、お互い生きているんだもの。

2017年4月22日土曜日

子を思う父

子: ねえ、○○伯父さんは、パパのお兄さんなの?

父: そうだよ。

子: じゃあ、××伯父さんも?パパのお兄さん?

父: そうだよ。

子: それじゃあ、パパにはお兄さんが二人いるってこと?

父: そうだよ。

子: パパにはお兄さんが二人いるのに、どうして僕には一人だけなの?

父: お前の人生の苦しみを半分にするためだよ。

2017年3月11日土曜日

英会話上達法

たしか、高校生の頃だったろうか。
兄弟の一人が言った。

「効果の高い英会話上達法があるらしい。しかも簡単で、費用は一切かからない。」

そんな都合の良い話が本当にあるのだろうか。
まずは一体全体どんな方法かを確かめよう。

「曜日を決めて、その日は日本語を一切使わない。
言いたいことは、身振り手振りを使ってもいいから、話すのは英語だけ。
『1時間』なんて区切り方をすると、もじもじしているうちに終わってしまうので、
『1日中』とすることが大切だ。
こうして、例えば週末英語生活を続けていると、自ずと上達するというわけ。」

なるほど、それは良い。
今すぐにも始めよう、ということで、
その日はその瞬間からその英会話上達法を実践することにした。

・・・・・・

私たちは沈黙した。
そうそう、これはやむを得ない。
だって、はじめの1時間やそこらは、
もじもじしているうちに過ぎてしまうと、説明されたもの。

・・・・・・

だんだんお腹が空いてきた。
時計を見ると、昼が近づいている。
私たちは顔を見合わせた。

「Um...(ええと、そろそろお昼だよね)」
「Um...Ah?(うん・・・、ほら、スパゲッティでも茹でようか)」
「OK.」

空腹とは、何と大きな影響力を持つものだろうか。
沈黙を続けていた我々は、身振り手振りを交えながらも、英語での会話を始めた。

「Here.(ほら、できたよ)」
「Thanks.(いただきます)」

少しずつだが、英単語が出てきた。
きっと、こうして続けているうちに、だんだん英会話らしくなるんだろう。

「Thanks.(ごちそうさま)」
「Oh.(洗いものは私がするよ)」
「Thanks.(ありがとう)」

そうだ、何も焦る必要はない。
少しずつ、ほんの少しずつでも英語で話せばいいんだ。

昼食後、兄弟は新聞を読み始めた。
いつもなら、面白い記事を見つけると読んで聞かせてくれる。
そしてあれこれオシャベリをするのが常だった。
どうやら兄弟は、恰好の記事を見つけたらしい。
紙面を示しながら、こちらを見た。

しかし、今日は英語の日だ。
我が家の新聞は日本語で書かれている。
どうやってこれを読み聞かせてもらおうか。

しばしの沈黙の後、我々二人は同時に膝を叩き、同時に口を開いた。

「Well, in Japanese!(えっと、日本語で行こうか!)」

そして、いつも通りの楽しい午後のひとときを過ごした。

幸か不幸か、効果の高い英会話上達法が、我々に英会話力をもたらすことはなかった。
ただ、その効果の高い英会話上達法は、我々に別のものをもたらした。
今でも、その日のことは我が家の語り草となっている。
いつも通りの週末の一日を、印象的な一日として記憶に残す、
そんな効果をもたらしたのだ。