ちょうど去年の今頃、バジルの種を母からもらった。
区役所のお祭りでもらったけど自分で育てるつもりはない、とのこと。
私は植物の育て方を心得ていない。
そのうえ、種の入った袋には説明書など一切ついていない。
ともかく植木鉢に全部蒔いた。
毎朝水をやっては、
「早く芽を出せ、バジルの種」と声を掛けてみた。
一週間後、一斉に芽を出した。
そして背が伸びていった。
まるでカイワレ大根のようだ。
いや、どう見てもカイワレ大根だ。
そもそも、バジルではなく、カイワレの種だったのではないか?
それとも、芽を出すまでの一週間で、自主的に遺伝子を組み替えてカイワレになったのか?
それほどまでに植物界ではカイワレへの憧れが強いのか?
毎朝の声掛けが、
「あなた方は、バジルですか?それともカイワレですか?」という問いかけに変わった。
するとある朝、
「私達はバジルです。カイワレではありません。バジルになりたいんです!」
という声が・・・聞こえてはいないが、そんな気がした。
しかし、相変わらず見た目はカイワレのまま。
その時ふと、かつて聞いた話を思い出した。
ある偉い理事と一緒に、神社の境内で日向ぼっこをしながらお弁当を食べていた時のこと。
「植物を育てるために必要なのは、思いっきりだ。
『間引き』なしには、植物は育たない。
顔を出した沢山の芽は、どれも等しく可能性を持っている。
たとえ一つだけでも、その可能性を摘み取ってしまうのは心苦しい。
しかし、最終的に実りを望むならば、一つだけを選び、他を摘み取らねばならない。
そうしないと結局は、全ての芽が、可能性が、実ることなく枯れてしまう」
そうか、間引きか!
沢山芽が出たからといって、いつまでも狭い植木鉢の中で押し合いへし合いさせていては、自分達同士で成長の邪魔をしてしまうんだ。
早速ハサミを用意して、一つだけを選び、他を摘み取ろうとした。
かの偉い理事の言葉通り、心苦しさを感じた。
「せっかく芽を出したのに、若いうちに摘んでしまってごめんね。
でも、あなた達チームとして、立派な大人のバジルに育つためなの。
今日のお昼のサラダは、カイワレバジルのトッピングだよ」
そして、思い切って、生まれてはじめて『間引き』をした。
翌朝、植木鉢にはバジルがいた。
未だ痩せっぽちだけれど、もうカイワレではなかった。
3日後には、もう、誰が見てもバジルと分かる姿になり、
去年ひと夏、折に触れて食卓を彩ってくれた。
カイワレバジルは、命懸けで教えてくれた。
可能性は、全てを永遠に温存し続けることは出来ないと。
しかるべき時機が来たら、その中から一つを選び、他を捨てるだけの思いっきりが必要であると。
そして、自ら取捨選択した決断をその後も背負ってこそ、開花し、実りがあるものだと。
あの日のサラダは、見た目にはカイワレがのっているようだった。
口に運ぶと、若々しいバジルの香りがした。