2011年5月7日土曜日

カイワレバジル

ちょうど去年の今頃、バジルの種を母からもらった。
区役所のお祭りでもらったけど自分で育てるつもりはない、とのこと。

私は植物の育て方を心得ていない。
そのうえ、種の入った袋には説明書など一切ついていない。

ともかく植木鉢に全部蒔いた。
毎朝水をやっては、
「早く芽を出せ、バジルの種」と声を掛けてみた。
一週間後、一斉に芽を出した。
そして背が伸びていった。
まるでカイワレ大根のようだ。
いや、どう見てもカイワレ大根だ。
そもそも、バジルではなく、カイワレの種だったのではないか?
それとも、芽を出すまでの一週間で、自主的に遺伝子を組み替えてカイワレになったのか?
それほどまでに植物界ではカイワレへの憧れが強いのか?
毎朝の声掛けが、
「あなた方は、バジルですか?それともカイワレですか?」という問いかけに変わった。

するとある朝、
 「私達はバジルです。カイワレではありません。バジルになりたいんです!」
という声が・・・聞こえてはいないが、そんな気がした。
しかし、相変わらず見た目はカイワレのまま。

その時ふと、かつて聞いた話を思い出した。
ある偉い理事と一緒に、神社の境内で日向ぼっこをしながらお弁当を食べていた時のこと。

「植物を育てるために必要なのは、思いっきりだ。
『間引き』なしには、植物は育たない。
顔を出した沢山の芽は、どれも等しく可能性を持っている。
たとえ一つだけでも、その可能性を摘み取ってしまうのは心苦しい。
しかし、最終的に実りを望むならば、一つだけを選び、他を摘み取らねばならない。
そうしないと結局は、全ての芽が、可能性が、実ることなく枯れてしまう」

そうか、間引きか!
沢山芽が出たからといって、いつまでも狭い植木鉢の中で押し合いへし合いさせていては、自分達同士で成長の邪魔をしてしまうんだ。

早速ハサミを用意して、一つだけを選び、他を摘み取ろうとした。
かの偉い理事の言葉通り、心苦しさを感じた。
「せっかく芽を出したのに、若いうちに摘んでしまってごめんね。
でも、あなた達チームとして、立派な大人のバジルに育つためなの。
今日のお昼のサラダは、カイワレバジルのトッピングだよ」
そして、思い切って、生まれてはじめて『間引き』をした。

翌朝、植木鉢にはバジルがいた。
未だ痩せっぽちだけれど、もうカイワレではなかった。
3日後には、もう、誰が見てもバジルと分かる姿になり、
去年ひと夏、折に触れて食卓を彩ってくれた。

カイワレバジルは、命懸けで教えてくれた。
可能性は、全てを永遠に温存し続けることは出来ないと。
しかるべき時機が来たら、その中から一つを選び、他を捨てるだけの思いっきりが必要であると。
そして、自ら取捨選択した決断をその後も背負ってこそ、開花し、実りがあるものだと。

あの日のサラダは、見た目にはカイワレがのっているようだった。
口に運ぶと、若々しいバジルの香りがした。