2011年8月28日日曜日

世界一の贅沢者

物心ついた頃から、食べ物の好き嫌いがない。
いわゆる健啖である。
おかげで時々、いたずらっぽく尋ねられることがある。

「嫌いな食べ物は、ないの?」
「ない」
「好きなものは?」
「全部!」
「じゃあ、特に『これ!』って好きなものは?」
「家で食べる普通のご飯!」

自分の母親の作ったものが好きなのは言うまでもないが、
実のところ、どこのお宅でいただくご飯も、好きだ。
誰が作っても、どこの家庭でも、家族と一緒にいただく手料理ほどおいしいものはない。
例えば、友達のお宅へ遊びに行って、ついつい長居してしまったときに、
「あんたの分もよそっちゃったから、食べていきなさい。手抜きだけど文句なしよ」
という言葉とともに供される、
極々普通のお母さんの作った、
極々普通の家族と一緒にいただく、
極々普通のご飯、
これは、私にとって最高のごちそうだ。

そもそも、人間の手のひらからは、天然の味の素のような『何か』が分泌されている、と信じている。
だからこそ手料理はおいしいのだ。

この『何か』によって味付けされたご飯をいただくにあたり、料金が発生することはない。
常に無料である。
逆に、支払おうなどとしたら、その後その家に出入りできなくなるだろう。

ここで、大切なことが、「タダほど高いものはない」という格言によって表わされている。
家で食べる無料のご飯こそ、世界中で最も高価な食事なのだ。
値段がつけられないほど価値が高いからこそ、無料にする他に手がないのである。


さて、気取らない普通のご飯を供してもらえるのは、
当然ながら、日常的な信頼関係があってこそのことである。
「旅行に出ているあいだ、泊り込みで猫に餌をやれ」とか、
「来るついでに、みかんを買って来い」とか、
「来たついでに肩を揉め」とか、
「帰るついでに、ゴミを出しておけ」とか、
「両親にこれを届けろ」とか、「兄弟にこれを頼んでおけ」とか、
こまごまとした、色々なことの積み重ねによって、信頼関係は築き上げられていく。
これらの、こまごまとした、色々なこともまた、常に無料であり、
値段がつけられないほど価値の高いことである。

値段がつけられないほど価値の高いご飯は、
値段がつけられないほど価値の高い日常的な雑事に支えられた信頼関係の一部であり、
その最もおいしい部分と言える。
私達の毎日は、こんなにも価値の高いものの遣り取りで満たされている。

こんな高価なものを好物と言って憚らない私は、世界一の贅沢者だ。