OL時代、好きな人がいた。
カレー屋さんの移動販売車で、職場近くに毎週来ていたお姉さんだった。
『ハツラツ』という言葉をそのまま体現したような彼女から、「こんにちは!」と声を掛けられると、
それだけで、いっぺんに自分の人生が素敵に見えてくる。
恵まれた職場環境だったとはいえ、人並みに仕事上の困難や悩みはあった。
一週間分のそんなこんなが、彼女の「こんにちは!」と美味しいカレーで、
みんな希望に変わってしまう。
温かいカレーを手に職場まで戻る間、気をつけることといえば、
① スキップをしない
② 鼻歌を歌わない
③ 知らない人に笑いかけない
の三点だった。
そして実のところ、いずれも殆ど守れたためしがない。
そんな彼女にカレーを注文してから、器に盛ってもらい、受取るまでが、ほぼ一分間。
そんな短い時間ではあるが、ほんの少しずつ、オシャベリをするようになっていった。
週に一回一分間、話の進みは遅々たるものだが、
数多い顧客の注文を手際よく捌きながらも、彼女は必ず先週までの話を覚えていてくれた。
OLを辞め、カレー屋さんにもご無沙汰して、半年以上が経ったある日、
「あのカレーが食べたい!あのお姉さんに会いたい!」という抗し難い衝動に駆られた。
昼休み、気付くと、移動販売車の前に並んでいた。
前のお客さんが注文する肩越しに、彼女の姿を覗き見た。
以前と変わらぬ笑顔と、以前と変わらぬ手際だった。
間もなく始まる彼女との一分間の会話を、どう切り出したら良いのだろう。
そもそも、果たして私のことなど覚えているだろうか。
「私は○月まで毎週通っていた者です」心の中で練習してみた。
こんな言い方、ストーカーまがいの人間と思われるかもしれない。
かといって、何と言えば、思い出してもらえるだろう・・・。
前のお客さんがカレーを手に立ち去った。
「こんにちは!」以前と変わらぬハツラツとした笑顔が私に向けられ、一分勝負は始まった。
注文をした後、深呼吸をした。
残り50秒、当たって砕けろ!思い切って切り出した。
「あの、ご記憶でないかもしれませんが・・・」
「覚えてますよ!先生でしょ?」
彼女は、私の顔も、当時の髪型も、OLをしながら非常勤講師をしていたことも、数学の個別指導塾をしてみたいと話したことも、全部覚えていてくれた。
「数学ね。そういう考え方みたいなもの、これからの時代、特に必要とされると思うわ」
以前と変わらず、「頑張って!」という言葉を避けて、選び抜かれた激励が贈られた。
カレーが手渡され、私の一分勝負は終わった。
地下鉄で五分、仕事場に戻ってから食べたカレーは、以前と変わらぬ味だった。
以前と変わらず、あれから私は、スキップと鼻歌とニヤニヤが止まらない。
そして以前と変わらず、自分の人生が、いっぺんに最高に素敵に見えてきた。
彼女は私を「先生」と言ったけれど、実際には彼女が私の先生だ。
たった一分間で、一人の人間の生命力を何百倍にもしてしまう。
憧れであり、光であり、そして導き手でもある。
こんなお手本が目の前に示されたことを、ありがたいと思った。
いずれまた、地下鉄に乗って、一分勝負をしに行こう。
そして私の胸を希望でいっぱいにしてやろう。
そうしたら、
もしかすると、
いつの日か、
誰かの胸を希望でいっぱいにするお手伝いが、私にもできるようになるかもしれない。