珍しく、一問にかなりの時間を掛けて解き終えた彼は、
軽くため息をつくと、部屋中をゆっくりと見回し、誰かの名を言った。
誰だろう。
苗字も名前も、この生徒さんとは異なる。
憧れのアイドルにしてはパッとしない名前だ。
クラスメイトにしてもイマドキっぽくない。
学校の先生だろうか。
そんなことを思っていると、もう一度同じ名を言った。
誰だろう?
私の口から出かかっている疑問を、彼の方が口にした。
「誰ですか?」
「え?いま私、『誰だろう?』と思っていたんだけど……。」
「知らないんですか?」
「うん、知らない。」
「自分で書いたんじゃないんですか?ほら、あれ。」
彼の指差す先に目を遣ると、付箋が貼ってある。
そこには、確かに私の字で、彼の読んだ通りの名が書いてあった。
ああ、これか。
ある日、何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
聴くつもりなんてまるでなかったはずなのに、風呂に入るのも忘れ、
タオルを抱きかかえたまま、私はラジオの前に正座していた。
気付いたときにはドラマが終わり、エンドロール風のものが読み上げられていた。
そんな出来事があったことも忘れた頃の、また別のある日、
やはり何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
そしてまたもや私はタオルを抱きかかえたまま時の経つのも忘れ、
ラジオの前に正座して、そこで繰り広げられるドラマに夢中になっていた。
エンドロールで読まれた作者名が、前回と似ている気がした。
またまた忘れた頃のある日、同じようなことがあった。
エンドロールの作者名は、確かに前回と同じだ。
こうなったら、もう忘れるわけにはいくまい。
図書館でこの名前を調べてみよう。
彼が指差したのは、そう思って書き留めておいたメモだった。
このいきさつを伝えると、彼は少し残念そうな顔をして言った。
「好きな人の名前かと思った。」
好きな人の名前って、忘れないようにメモするものだろうか。
あの時は、自分でメモしたことさえ忘れていたけれど、
彼の言葉をきっかけにその名を調べた。
結局今では、その人の主宰する劇団の芝居を見に行き、その人の書くエッセイを読み、
もっと他にないものかと、時には慣れないネット検索までしてしまう。
今さらではあるけれど、そうです。あなたの仰る通り。
あの時あなたが読み上げて指差したもの、
それはまぎれもなく「好きな人の名前」です。