2025年4月25日金曜日

母の戦後

 「山並みがきれいだった」

昔の話をしない母が、学童疎開先の景色を懐かしんで言った。


「こんど行ってみよう。まずは下調べね」と口をついて出たものの、何をどう調べたらよいのか見当もつかぬまま、遠足がてら区の平和資料館へ。

受付で母の出身校を伝えると、「ちょうど今、その小学校の疎開資料の展示が……」と奥に通された。

同窓生たちの絵日記だ。

が、あいにく疎開先が異なる。

同じ小学校から三つの地区に分かれて学童疎開していたらしい。


母の目をまっすぐ見ながら話を聞き取った職員さんは、事務室に戻ると紙の束を持ってきた。

表紙には母の疎開先の学校名。

子どもたちの描いた絵だ。


一枚めくると、近所の友だちの絵があった。

気が急くのだろう、母は手を震わせながら、一枚、また一枚とめくっていく。

その手が、ピタリと止まった。


母の兄の絵だ。

若くして死んだ兄の。


そこには疎開先の山並みが描かれていた。


あれからというもの、母は以前にも増して体力づくりに励み、PCまで習いだした。

ふりかえることさえできなかった過去に、向き合おうとしているのだろうか。


戦後80年の今年、母の戦後は、やっと始まったところだ。

2025年4月17日木曜日

経営判断

 社長「パートさんがこれでいいって言ったから」

2022年4月4日月曜日

得意料理

「得意料理は?」

「和食です。まあ、作るっていうより、食べるほうですけど」

2021年10月17日日曜日

絵を描く才能 その2

「最近どう?」と、弟くんから電話があった。
トマトの絵を描いたら、家族から「ミカン」と言われた話をすると、
「見せてみろ」とのこと。

早速その絵を送ってみたら、
「これは正真正銘のトマトだ。自信を持て。」

私は自信を回復した。
そこで今度は、鏡を見ながら自画像を描いた。

よし、なかなかうまく描けている。
弟くんに見せてやろう。

彼から返ってきた言葉は、
「これはお前じゃない。ミカンだ。」

2021年10月9日土曜日

絵を描く才能

昨日買ったトマトを眺めていたら、
むしょうに絵を描きたくなって、
鉛筆と裏紙でデッサンを始めた。

形は、真ん丸ではないな。
こっちから光が射して、この辺りに影が出て、
ヘタの部分は質感が違う……と。

ひとしきり夢中になって絵を描いた。

よし、これでいい。

家族に見せると、絶賛の声が上がった。
「実に良く描けている。」
「才能あるんじゃない?」
「あら、おいしそうなミカンだこと。」

2021年5月9日日曜日

最高のスマホ

我が兄弟からスマホを持たされることになった母。
彼女は絶対に、スマホから充電コードを抜かない。
つまり、母のスマホは固定電話である。

さらに、その電話番号を知る者は、ない。
当の母も知らない。
つまり、母のスマホは誰とも繋がらない。

母曰く、「スマホはこれに限る。」
つまり、持ち歩けない、誰とも繋がれない。
そんなスマホが、母にとっては最高のスマホらしい。

2020年5月8日金曜日

お裾分けとお返し

電話の向こうで弟くんは言った。
「マスクをしないで表に出ると、近所の人たちから陰口を叩かれるんだ。
 でも、どこに行っても買えないし、どうにもできないよ。」

翌日、偶然にも知人からマスクを10枚もらった。
「はんぶんこしよう。これでもう、誰からも悪く言われない。」
メモを添えて5枚を弟くんに送った。

あくる晩、電話が鳴った。
ひとしきりお礼を述べた彼は、消毒液を持っているかと尋ねた。
「あるよ」という私の答えに少しガッカリした様子だ。
どうやら、アルコールを手に入れたので、それをお返しにと思ったらしい。

彼はちょっと考えると、web会議システムに切り替えようと言いだした。
見覚えのある台所には、段ボール箱とバーベキュー用の網がある。
「これをこうして、あれをああして……。」
説明の行きついた先は、「燻製の作り方」だった。

お裾分けのお返しに、燻製の作り方を教えてくれたのだ。

ひとつ、週末に試すとするか。
なにしろ、特売の鮭の切り身が、最高級のスモークサーモンに変身するらしい。
おいしくできたら、今度は誰にお裾分けしようかな。

2019年12月22日日曜日

好きな人の名前

珍しく、一問にかなりの時間を掛けて解き終えた彼は、
軽くため息をつくと、部屋中をゆっくりと見回し、誰かの名を言った。

誰だろう。
苗字も名前も、この生徒さんとは異なる。
憧れのアイドルにしてはパッとしない名前だ。
クラスメイトにしてもイマドキっぽくない。
学校の先生だろうか。

そんなことを思っていると、もう一度同じ名を言った。

誰だろう?
私の口から出かかっている疑問を、彼の方が口にした。

「誰ですか?」
「え?いま私、『誰だろう?』と思っていたんだけど……。」
「知らないんですか?」
「うん、知らない。」
「自分で書いたんじゃないんですか?ほら、あれ。」

彼の指差す先に目を遣ると、付箋が貼ってある。
そこには、確かに私の字で、彼の読んだ通りの名が書いてあった。

ああ、これか。

ある日、何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
聴くつもりなんてまるでなかったはずなのに、風呂に入るのも忘れ、
タオルを抱きかかえたまま、私はラジオの前に正座していた。
気付いたときにはドラマが終わり、エンドロール風のものが読み上げられていた。

そんな出来事があったことも忘れた頃の、また別のある日、
やはり何となくラジオをつけると、ドラマが始まった。
そしてまたもや私はタオルを抱きかかえたまま時の経つのも忘れ、
ラジオの前に正座して、そこで繰り広げられるドラマに夢中になっていた。
エンドロールで読まれた作者名が、前回と似ている気がした。

またまた忘れた頃のある日、同じようなことがあった。
エンドロールの作者名は、確かに前回と同じだ。
こうなったら、もう忘れるわけにはいくまい。
図書館でこの名前を調べてみよう。
彼が指差したのは、そう思って書き留めておいたメモだった。

このいきさつを伝えると、彼は少し残念そうな顔をして言った。
「好きな人の名前かと思った。」

好きな人の名前って、忘れないようにメモするものだろうか。

あの時は、自分でメモしたことさえ忘れていたけれど、
彼の言葉をきっかけにその名を調べた。
結局今では、その人の主宰する劇団の芝居を見に行き、その人の書くエッセイを読み、
もっと他にないものかと、時には慣れないネット検索までしてしまう。

今さらではあるけれど、そうです。あなたの仰る通り。
あの時あなたが読み上げて指差したもの、
それはまぎれもなく「好きな人の名前」です。