古い録音テープが発掘された。
父の字で、私の名前が書いてある。
再生してみると、祖母と私との会話が始まった。
「今、いくつになる?」
「よんさい」
「おせち料理の中で、何が一番好きかい?」
「くりきんとん」
「どうして?」
「甘いから」
「他にもおせちで好きなものはあるかい?」
「だてまき」
「どうして?」
「甘いから」
四歳の私は、よほど甘いものに飢えていたらしい。
会話は続く。
「おやおや、こんなに日焼けして。真っ黒だね」
「日焼けはしているけど、これは真っ黒ではなくて、真っ赤だよ。
今は焼けたばかりだから赤いけど、何日かしたら茶色くなるの。でも黒にはならないの」
四歳の私は、妙に理屈っぽい。
「こんな屁理屈をこねる四歳児、私は付き合えるだろうか」と、
何十年か後の本人には、自信が持てない。
それでも会話は続いている。
祖母は私の日焼けが痛かろうと気遣い、
私は赤みが引くまでの二、三日が勝負だと能書きをたれる。
更に、冷やしてみようか、軟膏でも塗るか、と提案する祖母に対し、
私の方は、やってみてもいいよ、と態度が大きい。
思い起こせば、祖母はこんな私に愛想を尽かすこともなく、最期まで一緒に暮らし、
常に注意を払い、話しかけ、働きかけ続けてくれた。
愛とは、注意力である。
そして、相手の健康と幸福を願うことである。
更には、相手の幸福に、ほんの僅かでも貢献したい、と望むことである。
……というのが、私の勝手な「愛の定義」である。
この定義に従うならば、この録音テープから流れる会話は、まさに愛の一コマと言える。
私は、祖母に愛されていたこと、そして彼女の血が自分の中に四分の一流れていることを、有難く、また嬉しく思う。
屁理屈をこねられようが、多少とっつきにくかろうが、なんだろうが、
彼女のように、目の前の相手を遠慮なく愛せる人に、私もなりたい。