昔々、アルバイト先の経理部長から、いただいたものだ。
「良い本なんだけどね、イマドキ流行らないのよ、こういうの。すっかり日焼けしちゃってるけど、持って帰りなさい」
手渡された時の彼女の口調まで思い出された。
当時は読みもしなかったくせに、今になって手に取ったら、
何となく懐かしくなって、何となくページを繰っていると、何となくやめられなくなって、何となく読み進めた。
この中で筆者は、「愛」という単語を手元の小さな国語辞典で引く。そこに
愛 : いつくしみ、かわいがること
と説明されているのを見て、
「特定の相手だけを『かわいがる』、そんな中途半端で生易しい『愛』なんて偽物だ!」とばかりに、こう続ける。
”愛”が他人を傷つけることを顧みないならば、雌犬も又、仔犬を守るために近よるものにかみつきます。”国を愛すること”が、他国民を虐殺することを許す野獣的な次元の”愛”には、文明の名にかけて別れを告げたいと、ほんとうにそう思うようになりました。しかも科学は、この野獣たちに、地球を破壊するほどの大きな力を与えています。”愛”の価値を変えない限り、高度科学技術社会に名をかりた人間の歴史は、はかりしれない恐怖の悲劇をくりかえすことでしょう。”愛”は、いのちあるものの、いのちあるものへの同感です。
・・・・・・ (四八年七月 文集)
宮下操 『へそのないノート』 新読書社、1988、pp.98-99.
「四八年」とあるのは、恐らく昭和四八年、西暦でいえば1973年のことだろう。
経理部長は、「イマドキ流行らない」と言っていたけれど、
この文章が書かれた1973年当時も、この本が出版された1988年当時も、
経理部長からこの本を受け取った当時も、そして今も、
これが「イマドキの流行り」になったことは、一度もなさそうだ。
しかし同時に、40年も前に書かれたこの文章が、
まるで、つい最近、新聞か何かに投稿されたもののように、私には見えた。
「イマドキ流行らない」ものは、
何十年経っても流行らない代わりに、
何百年経っても、何かを言い得ているのかもしれない。
ところで、ここで筆者は「愛」という言葉に独自の定義づけをしている。
”愛”は、いのちあるものの、いのちあるものへの同感です。
全てのいのちあるものへ同感できる、そんな感性を、私も磨いていきたい。
「生命の星 地球」なんて呼び方をよく耳にするのは、
いのちあるものたちの暮らす星であることが、地球の特徴の一つと言えるためだろう。
この星の上、全てのいのちあるものにとって、
自らの感性を育む自由が妨げられることのない社会であることを、
感じたことを表現する自由が妨げられることのない社会であることを、
そうして、一人ひとりの感じたこと・表現されたものが多数決の名のもとに消し去られることなく、
互いに尊重される社会であることを、
願ってやまない。