生まれて初めて訪れたその街で最初に見たものは、二十年来の友人の笑顔だった。
彼は仕事を休んで、自分の生まれ育った街を、隅から隅まで案内してくれた。
この街で過ごした最後の午後のこと。
観光の合間、カフェに入ると、彼から二十年前の思い出が溢れ出した。
「僕の街にはお風呂屋さんがなかったから、
初めてあなたの家に行ったとき、『お風呂屋さんに行ってみたい』と言った。
そうしたら、あなたのお父さんはニコニコして、『案内してやる』って答えたんだ。
彼はいつも、言葉数が少ないし、表情も乏しいでしょう?
でも、お風呂屋さんでは、ずーっと、ニコニコしていてね、
下駄箱の鍵も、番台も、僕が興味を持ったものを、ひとつずつ、丁寧に説明してくれたんだ。
頼もしい『師匠』に見えたよ。
身体を洗い始めると、『背中を流してやる』って言われた。
目上の人にそんなことをしてもらって失礼に当たらないか、
それとも、断ったらかえって失礼なのか、
すごく迷ったけど、『お願いします』って背中を向けてみた。
そうしたら、お父さんは僕の背中を、タオルで洗ってくれた。
1分くらいして、僕は『どうもありがとうございます』と言って振り向いた。
そうしたら、お父さんは『まだまだ』と言って、僕の背中を洗い続けた。
僕はそれまで、背中を丁寧に洗ったことがなかったから、
『もしかすると、汚れが溜まっているのかな』と思った。
2、3分して、もう一度『どうもありがとうございます』と言った。
それでも、お父さんは『まだまだ』と言って、僕の背中を洗い続けた。
5分後も、10分後も、同じことが繰り返された。
僕の背中は、もう『因幡の白兎』さながらだったけど、
お父さんから見ると、まだまだ汚れが取れていなかったらしいよ。
15分くらい経ったころ、やっと『よし』と言ってもらえたんだ。
あと10秒でも長かったら、きっと血がにじんでいただろうな。
『今度は僕が流します』
そう言って、タオルでお父さんの背中をクルクルっと2、3回撫でた。
そうしたら、お父さんは『ありがとう』と言って、湯船に入ってしまった。
『え?
僕の背中は15分洗い続けなきゃならないほど汚くて、
あなたの背中は、2、3回撫でたら済むほどキレイなの?』
僕がそう言うと、お父さんは黙ってニコニコしていたよ。
二人並んで湯船につかっていると、僕はすぐに苦しくなった。
ところがお父さんは涼しい顔をしている。
良く良く比べると、背の高さが違う。
僕は背が低くて、顎を上げておかないと、顔が水面から出ないんだ。
お父さんは背が高くて、普通にしていても顔は水面から出ている。
だけどね、立ち上がった時には、僕の方がお父さんより10cmくらい背が高いでしょう?
『これはどうも納得いかない、不公平だ』
僕がそう言うと、お父さんはやっぱり黙ってニコニコしていたよ」
二人してカフェにいることをすっかり忘れ、二十年前の銭湯にタイムスリップしていると、
気付けば、4時間も経っていた。
帰宅するなり、彼は部屋中の引出しをひっくり返し始めた。
お嫁さんにも手伝ってもらって、何やらお目当ての品を探し当てたようだ。
「これが僕の宝物入れ」と見せられたのは、クリアファイルだった。
そこには、
父が彼に書いた手紙が二通、
母が彼に書いた手紙が一通、
そして、彼のお嫁さんが、かつて恋人同士だった時代に書いたラブレターが一通、
入っていた。
「僕はね、あなたのお父さんのお葬式に、とっても出たかったんだ。
知らせを聞いたときは驚いたし、悲しかったけど、最後にお別れの挨拶をしたかった。
そして、あなたのお母さんを抱きしめてあげたいと思った。
お母さんに『また会いたい』って、伝えてね」
料理上手のお嫁さんが、この土地の料理の作り方を教えてくれたのも、
真面目な長男が、学校で習った歌やら数字やら綴り字を教えてくれたのも、
人懐こい次男坊が、スキップしながらトイレの中まで付いて来てくれたのも、
他には代えがたい、今回の滞在の大切なお土産だ。
床に就くと、お風呂屋さんで嬉しそうに『師匠』を気取る父の姿が目に浮かんだ。
最後の最後に受け取ったお土産は、
いつも苦虫をかみつぶしたような様子ばかりしていた父の満面の笑みと、
その父を、この友人がこよなく敬愛している、という事実だった。
そして、父の三回忌の準備をしよう」
荷物をまとめながらそう思った。