われらが町内において、なっちゃんを知らない者は、まず居ない、と思う。
この界隈で、なっちゃんは、それほど有名な存在だ、と思う。
まだ私が、ここに住み始めて日の浅い頃、
そう、まだ私が、なっちゃんを知らなかった頃のこと。
ある晩、すっかり暗くなった通りから、悲痛な叫びが聞こえてきた。
その声は、「なっちゃん!なっちゃん!なっちゃーん!」と繰り返しながら移動している。
どうやら、なっちゃんを探しているらしい。
声の感じからすると、還暦前後のご婦人だろうか。
就学前の孫娘を息子夫婦から預かって、日中を共に過ごし、夕飯も風呂も済ませて、
やれやれ、あとは寝かしつけるだけだわ、と祖母は一息ついた。
そんな隙を突き、両親に会いたくて仕方なかった孫娘は、祖母の目を盗んで逃亡した。
・・・なんてストーリーを想像した。
その晩は、私が眠りに落ちるまでの間、遠く近く、「なっちゃん!」コールが続いていた。
翌朝目覚めると、昨晩の声の主と、お向かいの奥さんとの会話が聞こえてきた。
「昨夜はずいぶん遅くまで頑張ってたじゃない」
「そう。なっちゃんが家出しちゃって。
昨日の昼間は、だいぶ元気に走り回っていたから、今夜は良く寝るだろう、と思ってたの。
そしたら、この子ったら、夜、暗くなった頃に突然プイッと姿を消すもんだから。
車にハネられやしないか、誘拐されやしないかって、もう心配して心配して、
血まなこになって探したわ」
ご婦人の話し振りから推し量るに、
どうやら、なっちゃんは既に発見され、今は彼女と一緒に歩いているようだ。
私は胸をなでおろした。
そしてもう一つ、少なくとも現在のところ、彼女の話において、
私の想像したストーリーに関し、『あたり!』とは言えないまでも、
決定的なハズレ要因は提示されていない。
彼女の話は続いた。
「この子、ほら、小さいでしょ?どこに入っちゃうか分からないのよ。
もう、手当たり次第見て回って、大変だったの。
花壇の中とか、落ちている紙袋の中とか」
えっ?
手当たり次第って、花壇とか、ましてや紙袋には、いくら小さな子でも入れないでしょう?
「この子、ほら、黒いじゃない?暗いと見えないのよ」
ええっ?
いくら色の黒い子でも、暗いと見えないほど黒くはないでしょう?
私は居ても立ってもいられなくなり、ゴミ出しを装って表に出た。
すると、そこにいたのは、
お向かいの奥さんと、還暦前後のご婦人と、・・・チワワだった。
確かに、小さくて、黒かった。
花壇はもとより、紙袋にも入れそうなくらい、小さかった。
暗い中では、さぞ見えにくかろう、と頷きたくなるくらい、黒かった。
結局、なっちゃんの家出の原因は不明のままだが、
その後も、不定期ながら、なっちゃんは時々家出を繰り返している。
それが証拠に、かのご婦人の「なっちゃん!」コールが時々聞かれる。
そして翌朝、彼女と散歩するなっちゃんの姿を見ては、私は胸をなでおろしている。