2012年10月27日土曜日

なっちゃん

われらが町内において、なっちゃんを知らない者は、まず居ない、と思う。
この界隈で、なっちゃんは、それほど有名な存在だ、と思う。

まだ私が、ここに住み始めて日の浅い頃、
そう、まだ私が、なっちゃんを知らなかった頃のこと。

ある晩、すっかり暗くなった通りから、悲痛な叫びが聞こえてきた。
その声は、「なっちゃん!なっちゃん!なっちゃーん!」と繰り返しながら移動している。
どうやら、なっちゃんを探しているらしい。

声の感じからすると、還暦前後のご婦人だろうか。
就学前の孫娘を息子夫婦から預かって、日中を共に過ごし、夕飯も風呂も済ませて、
やれやれ、あとは寝かしつけるだけだわ、と祖母は一息ついた。
そんな隙を突き、両親に会いたくて仕方なかった孫娘は、祖母の目を盗んで逃亡した。
・・・なんてストーリーを想像した。

その晩は、私が眠りに落ちるまでの間、遠く近く、「なっちゃん!」コールが続いていた。

翌朝目覚めると、昨晩の声の主と、お向かいの奥さんとの会話が聞こえてきた。

「昨夜はずいぶん遅くまで頑張ってたじゃない」
「そう。なっちゃんが家出しちゃって。
昨日の昼間は、だいぶ元気に走り回っていたから、今夜は良く寝るだろう、と思ってたの。
そしたら、この子ったら、夜、暗くなった頃に突然プイッと姿を消すもんだから。
車にハネられやしないか、誘拐されやしないかって、もう心配して心配して、
血まなこになって探したわ」

ご婦人の話し振りから推し量るに、
どうやら、なっちゃんは既に発見され、今は彼女と一緒に歩いているようだ。
私は胸をなでおろした。

そしてもう一つ、少なくとも現在のところ、彼女の話において、
私の想像したストーリーに関し、『あたり!』とは言えないまでも、
決定的なハズレ要因は提示されていない。

彼女の話は続いた。

「この子、ほら、小さいでしょ?どこに入っちゃうか分からないのよ。
もう、手当たり次第見て回って、大変だったの。
花壇の中とか、落ちている紙袋の中とか」

えっ?
手当たり次第って、花壇とか、ましてや紙袋には、いくら小さな子でも入れないでしょう?

「この子、ほら、黒いじゃない?暗いと見えないのよ」

ええっ?
いくら色の黒い子でも、暗いと見えないほど黒くはないでしょう?

私は居ても立ってもいられなくなり、ゴミ出しを装って表に出た。
すると、そこにいたのは、
お向かいの奥さんと、還暦前後のご婦人と、・・・チワワだった。

確かに、小さくて、黒かった。
花壇はもとより、紙袋にも入れそうなくらい、小さかった。
暗い中では、さぞ見えにくかろう、と頷きたくなるくらい、黒かった。


結局、なっちゃんの家出の原因は不明のままだが、
その後も、不定期ながら、なっちゃんは時々家出を繰り返している。
それが証拠に、かのご婦人の「なっちゃん!」コールが時々聞かれる。
そして翌朝、彼女と散歩するなっちゃんの姿を見ては、私は胸をなでおろしている。