何年前になるだろうか。
四月上旬のことだった。
当時の勤め先の部長が言った。
「はらはらと舞う桜の花びらを空中で捕まえると、幸せも捕まえられるって聞いてね、
『オレは今、朝に晩に桜吹雪の中を通勤してるんだから、そんなこと簡単さ!』と思って、
ちょっと試したのよ。
しかし、これが案外難しくて、ちっとも捕まえられないんだ。
花見客の前で、奇妙な踊りを踊るばっかりで、恥ずかしくなって諦めたよ」
それを聞いて、ひとつ私も幸せの花びらを捕まえてみようと、
昼休み、近くの桜名所へ散歩に出た。
ちょっと風が吹けば、数え切れないほどの桜の花びらが一斉に舞い、猛烈な桜吹雪になる。
こんなに沢山舞っている。
それに、一枚一枚は、あくまでも舞っているのであって、
決して、猛スピードでスッ飛んで行くわけではない。
簡単にドンブリ一杯分くらい捕まえられそうな気がする。
これが捕まえられないなんて、
部長はスポーツマン風に見えるけど、実は運動神経がメチャメチャ鈍いのかもしれない。
宙を舞う花びら達の中から、ひとひらに狙いを定め、舞い進む行く手に片手を伸ばした。
手を伸ばすと、その花びらは方向転換した。
転換された方向に、また手を伸ばす。
すると、花びらはまた方向転換する。
手を伸ばしては逃げられ、逃げられてはまたそちらに手を伸ばし、また逃げられる。
意外にも、舞う花びらを捕まえるのは難しいことが分かった。
やはり部長は見た目どおりのスポーツマンで、運動神経も良いのだろう。
そんな彼が諦めたのだ。
私は弱気になってきた。
「このまま肩に桜吹雪がくっついて、遠山の金さんに変身するのと、
幸せの花びらをひとひら捕まえるのと、どっちが早く実現するだろう?」
そんな疑問まで湧いてきた。
いや、ここまで来た目的を思えば、遠山の金さんになんか変身していられない。
よし、私は幸せの花びらを捕まえる方が早いことに賭ける!
周りには昼休みを満開の桜の下で過ごす人たちが少なからずいた。
しかし、人目など気にしてはいられない。
私は覚悟を決め、宙を舞う花びら達の中から、改めてひとひらに狙いを定めた。
その舞い進む行く手に、今度は両手を伸ばした。
花びらは方向を変え、逃げた。
逃げた方向に、また両手を伸ばした。
今度は捕まりそうだ。
花びらを挟むように両手を合わせた。
しかし花びらは方向を変え、逃げた。
部長が花見客にご披露した奇妙な踊りを、今度は私が踊っていた。
しばらくの間、美しく舞う花びら達と共に奇妙な踊りを踊ったところで、我に返った。
行き交う人たちの様子から、昼休みも終わりに近いことが伺えた。
時間切れだ。
賭けもオシマイ。
遠山の金さんにも変身しなければ、幸せの花びらも捕まえられなかった。
チョッピリ残念。
だけど人目も気にせず、こんなカッコ悪いことに夢中になっちゃうのって、結構気分好いかも。
そう思って、桜名所を去ろうとした時だった。
一陣の風が吹き、再び桜吹雪が起きた。
それでも私は、手を伸ばさなかった。
あちこちで、花びらがくるくると渦を巻いた。
「ありがとう。あなた達と一緒にヘンテコな踊りを踊って、楽しかった」
花びら達を見上げ、挨拶をした。
職場に向かって歩き出す前に、
頑張ったけど、花びらをひとつも捕まえられなかった両手のひらに目をやった。
はらはらと一枚の花びらが舞い下り、左手の上に静かに乗った。