2012年4月26日木曜日

幸せの花びら

何年前になるだろうか。
四月上旬のことだった。

当時の勤め先の部長が言った。
「はらはらと舞う桜の花びらを空中で捕まえると、幸せも捕まえられるって聞いてね、
『オレは今、朝に晩に桜吹雪の中を通勤してるんだから、そんなこと簡単さ!』と思って、
ちょっと試したのよ。
しかし、これが案外難しくて、ちっとも捕まえられないんだ。
花見客の前で、奇妙な踊りを踊るばっかりで、恥ずかしくなって諦めたよ」

それを聞いて、ひとつ私も幸せの花びらを捕まえてみようと、
昼休み、近くの桜名所へ散歩に出た。
ちょっと風が吹けば、数え切れないほどの桜の花びらが一斉に舞い、猛烈な桜吹雪になる。
こんなに沢山舞っている。
それに、一枚一枚は、あくまでも舞っているのであって、
決して、猛スピードでスッ飛んで行くわけではない。
簡単にドンブリ一杯分くらい捕まえられそうな気がする。
これが捕まえられないなんて、
部長はスポーツマン風に見えるけど、実は運動神経がメチャメチャ鈍いのかもしれない。

宙を舞う花びら達の中から、ひとひらに狙いを定め、舞い進む行く手に片手を伸ばした。
手を伸ばすと、その花びらは方向転換した。
転換された方向に、また手を伸ばす。
すると、花びらはまた方向転換する。
手を伸ばしては逃げられ、逃げられてはまたそちらに手を伸ばし、また逃げられる。

意外にも、舞う花びらを捕まえるのは難しいことが分かった。
やはり部長は見た目どおりのスポーツマンで、運動神経も良いのだろう。
そんな彼が諦めたのだ。

私は弱気になってきた。
「このまま肩に桜吹雪がくっついて、遠山の金さんに変身するのと、
幸せの花びらをひとひら捕まえるのと、どっちが早く実現するだろう?」
そんな疑問まで湧いてきた。

いや、ここまで来た目的を思えば、遠山の金さんになんか変身していられない。
よし、私は幸せの花びらを捕まえる方が早いことに賭ける!

周りには昼休みを満開の桜の下で過ごす人たちが少なからずいた。
しかし、人目など気にしてはいられない。

私は覚悟を決め、宙を舞う花びら達の中から、改めてひとひらに狙いを定めた。
その舞い進む行く手に、今度は両手を伸ばした。
花びらは方向を変え、逃げた。
逃げた方向に、また両手を伸ばした。
今度は捕まりそうだ。
花びらを挟むように両手を合わせた。
しかし花びらは方向を変え、逃げた。
部長が花見客にご披露した奇妙な踊りを、今度は私が踊っていた。

しばらくの間、美しく舞う花びら達と共に奇妙な踊りを踊ったところで、我に返った。
行き交う人たちの様子から、昼休みも終わりに近いことが伺えた。

時間切れだ。
賭けもオシマイ。
遠山の金さんにも変身しなければ、幸せの花びらも捕まえられなかった。
チョッピリ残念。
だけど人目も気にせず、こんなカッコ悪いことに夢中になっちゃうのって、結構気分好いかも。

そう思って、桜名所を去ろうとした時だった。
一陣の風が吹き、再び桜吹雪が起きた。
それでも私は、手を伸ばさなかった。
あちこちで、花びらがくるくると渦を巻いた。

「ありがとう。あなた達と一緒にヘンテコな踊りを踊って、楽しかった」
花びら達を見上げ、挨拶をした。
職場に向かって歩き出す前に、
頑張ったけど、花びらをひとつも捕まえられなかった両手のひらに目をやった。
はらはらと一枚の花びらが舞い下り、左手の上に静かに乗った。