2012年6月4日月曜日

憧れ

子どもの頃、憧れていたものがある。
それは、『絵柄入のトイレットペーパー』だ。

同級生のお宅でのクリスマス会に招かれたとき、
サンタさんやらトナカイやらの絵の印刷されたトイレットペーパーを初めて目にし、衝撃を受けた。
「こんな素敵なものを、一回使っただけで、流してしまうの?」
そんなところに、『江戸の粋』を感じた。

家族に見せたい、と思った。
手を洗った後、ミシン目から次のミシン目まで、改めて一区切り分だけを切り取った。
畳んでこっそりポケットに入れた。

家に帰ると、ポケットの中身のことなどすっかり忘れて、ポイポイと服を脱ぎ捨て、風呂に入った。
着ていた服も、ポケットの中も、きれいに洗濯してもらった。

あとから思い出し、家族に話してはみたものの、
「洗濯物を出す前には、ポケットの中を確認しなさい」と注意されたり、
「ヨソはヨソ、ウチはウチ。これからもウチは無地のトイレットペーパーでいきます」と釘を刺されたり
するだけだった。

その後も、何人かの友人宅で、素敵なトイレットペーパーを見た。
全体にキレイな色が掛けてあったり、
草花の絵柄がプリントされていたり、
可愛らしいキャラクターがなぞなぞを出していたり、
そんなトイレットペーパーに出会うたび、憧れの気持ちは、大きく、更に大きく、膨らんでいった。

しかしながら、我が家のトイレットペーパー事情が変わることはなかった。
また現実的に、毎日を無地のトイレットペーパーで過ごしたからと言って、不都合は生じない。

その後の私は、現実に合わせて生き延びるため、
憧れの気持ちを、胸の奥に仕舞いこみ、しっかりと鍵を掛けた。
まるで、「トイレットペーパーは、無地であるべし」という価値観の海に、ドップリ浸りきったように、
絵柄入りのトイレットペーパーのことを考えないようになった。


それが、である。
昨年、私の誕生日の数日前、である。
週末のスーパーマーケットをウロウロしていた時、である。

強い憧れの気持ちが、急激に湧き上がった。
それは何十年もの間、胸の奥に、しっかりと鍵を掛けて仕舞いこんでいたものだった。

目の前には、上品な花柄のプリントされたトイレットペーパーがあった。
「本日、日用品全品一割引き」だった。
胸をときめかせながら、手に取り、そして決意した。
「今年の自分への誕生日プレゼントは、これにしよう!」
私は、何十年もの間、胸の奥に掛けていた鍵を開け、憧れを開放した。


その後も、日常的に使用しているのは、やはり無地のトイレットペーパーだ。
しかし、旅先で、あるいは自分の記念日などに、
素敵なトイレットペーパーに出会ったら、迷わず買っている。

前回の旅行では、バラの花柄と何やら読めない横文字がエンボス加工されたものを購入した。
帰りの飛行機では、預け荷物にするか、機内持ち込み手荷物にするか、
さんざん悩んだ挙句、機内に持ち込んだ。
手荷物検査場では「中身を拝見」と要請された。
覚悟を決め、バッグを開けて、素敵なトイレットペーパーを検査官に見せてあげた。
チョッピリ照れくさかったけれど、憧れの気持ちをこうして開放することが、誇らしくも感じられた。


きっと、こんな風に鍵を掛けっぱなしにした『何か』が、他にもいっぱいあるのだろう。
それを人は、「とらわれ」とか「拘り」とか、「コンプレックス」とか、色々に呼ぶ。
それらを持っていることは、たぶん、生きている証みたいなもので、決して悪いことではない。
でも同時に、
それらを見つけて鍵を開け、『何か』を開放してあげること、
これを人は、「成長」とか「克服」とか、「自己実現」なんて呼ぶのではないだろうか。

これからも、胸の奥に掛けっぱなしにした鍵を見つけたら、開けて、『何か』を開放してあげよう。
そして、覚悟を決め、チョッピリの照れくささと誇りをもって、開放した『何か』と共に歩んで行こう。