2012年8月16日木曜日

一進一退

心の中で大親友と呼んでいる、ある大先輩とランチをご一緒した。

「で、どう?最近は」
いつもなら、こちらに相槌を打つ暇さえ与えないほどに、息をもつかず話し続ける彼女が、
ふっと全てのスピードを緩め、私をじっと見つめた。
彼女が尋ねたのは、この春、脳出血で倒れ、現在リハビリ入院中の父の様子について、である。

何十年も、悲観的一筋に生きてきた父が、入院直後の一ヶ月ほど、
人が変わったように前向きになって、リハビリテーションに取組んだ・・・少なくとも、そう見えた。
お蔭で、画期的な回復を遂げる・・・ことを期待した。
しかしその後、目的意識の欠如のためか、気力は急降下した。
残念なことに、長年慣れ親しんだ、悲観的で後ろ向きな父に戻ると同時に、
せっかくできるようになった「立つ」も「寝返り」も「着替える」も、あっという間にできなくなった。
再び前向きに生きて欲しいと願いつつ、試行錯誤の働きかけを続けてはいるものの、
なかなか思わしい変化が見られず、このところ徐々に無力感が私を蝕み始めていた。

彼女の質問にどう答えたものか、やっとのことで私は声を搾り出した。
「一進一退、かな」
「そう。あなたのお父さんって、前向きな方だっけ?」
「いえ、120%後ろ向き」
「確か、そうだったわね。ゴメン、言いにくいこと言わせて」

彼女は小さくため息をつくと、覚悟を決めたように言葉を続けた。

「どんなに大きな進歩も後退も、全ては『一進一退』の積み重ねなの。
『一進一退』って、詳細に見ると、『進』と『退』に微妙な差があってね、
たとえ1ミクロンでも、『進』が『退』に勝っていたら、その人は確実に回復する。
でも反対に、たとえ1ミクロンでも『退』が『進』に勝っていたら・・・
これは、今まさに、あなたが気を揉んでいること。

殊にリハビリって、精神力がモノを言うでしょ?
その人の現在の前向きさ加減は、『進』と『退』のバランスを決める大きな要因になる。
そして、その人の現在の前向きさ加減は、これまでの人生の歴史を背負っている。

もちろん、生きた人間だもの。いつ、どう変わるか、誰にも分からない。
これまでずっと後ろ向きだった人が、今日から前向きになるかもしれない。

ただ、それは本人が決めることなの。
あなたは、お父さんを支えることはできても、変えることはできない。

あなたの人生は、あなたにしか決められないのと同じように、
お父さんの人生も、たとえそれが、どんなに後ろ向きなものであったとしても、お父さんにしか決められない。

お父さんの回復を、あるいは前向きになってくれることを願って、希望(*)を持ち続けること、
これはとても大切なこと。
でも、過度な期待を持たないことも、とっても大切。

あなたは、自分にできる範囲のことをしっかりやれるし、やっている。
だから、そこに希望を持つの。
過度な期待を持って、自分にできる範囲の外にまで手を出してはいけない。
それは、あなた自身の人生を蝕みかねないから」

私がゆっくり頷くと、彼女はいつもの楽しいオシャベリ・モードに切替えた。
機関銃のような彼女の冗談に笑い転げながら、私は自分の中で何かが少し軽くなったことを感じた。

それは、何もかもを打ち明けて話した後の、「手放した」軽さだった。
彼女の話したアレコレは、
このところ、私の内部にうごめきながらも、誰にも話すことも手放すこともできずにいたこと、
そして、自分の内部にありながらも、受け容れられずにいたこと、そのものだった。
自分の口からは、話すことも手放すこともできなかったアレコレを、彼女はサラリと話してのけた。
そんな彼女の話を聞くことで、私は自分が話し尽くした後のような、「手放した」感覚を得た。
そして気付くと、自らの内なる声を受け容れ始めていた。
「これからも希望を持ち続けよう。ただし、過度な期待は持たない」

これまで、こんな風に彼女に助けてもらったことが、何度あっただろう。

一人になってから、あの時の会話を思い返した。
いつも感心することだが、
彼女は、どうやって私の心の中を、ああも手に取るように推し量るのだろう?
あの日、あのランチで、私は二言しか発していないのに。